2025/08/07

写らないものを写真の対象として引き寄せる

写真家としてデビューしたのは1971年だから今年で54年間私は写真を撮ってきたことになる。

当時を思い出そうとしてもディテールはどんどん不確かになっている。ただ確かなことは「特別な場所へ行き、ドラマティックな風景を写真に撮るのはなんだか違うなあ」と思っていたことだった。

旅ではなく別の次元で冒険したかったのだ。

何処か世界の果てを目指すよりも、自分はいったい何者だろう、何を考えて、何をしようとしてるのか。今、頭の中にあるボンヤリしたものを写真に撮れないか、と思っていた。
自分自身の自分一人を掘り下げて行き当たったものは、自分だけの問題ではなくすべての人に共通する物事に関わっていく予感があった。また、そのくらい深い問題を抱えた写真でないと撮る甲斐がないとも思ったのだ。

写真は目の前に存在する物事の表面を写すことで成り立っている。音や時間や匂いなど目に見えないものは写らない。それに、せっかく存在していても、カメラのフレームから外れたものは写らない。
自分が写真家として、生涯かけて相手にするのは、こうした写らないものを写真の対象として引き寄せ、どう写したらいいのかを考え、写真に残すことじゃないかと思った。

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2025/08/06

仏の顔は一つじゃない

白仏

仏の顔は一つじゃない。

時が経って目鼻がすり減りあるいは欠損して白くなったお顔は、表情を失った分だけいかようにも見えてくる。少し怒っているようにも微笑んでいるようにも、知人の誰々のおもかげさえ浮かんでくる。さらに見つめていると自分の顔に見えることすらあってギョッとする。

白仏に出会いたくて国東半島へ来た。大分は磨崖仏や石仏の宝庫だ。

杵築市山香町の農道を歩き、さらに道から外れた坂道を登り、竹藪をかき分けた奥の暗い岩壁に石仏はあった。文字どおりひっそりと、岩窟の奥は眼を凝らさなければ見えないほどの暗がりである。
あたりの様子から察すると、以前に人が来たのはいつのことなのか。肩に枯葉が落ち、頬には蜘蛛が這った痕迹がある。

私が見つめているのは目の前にある石の仏から美を見出し、そこにはあり得ない大きなものを求めているのだとも思う。

一期一会という言葉を噛み締めている。


2025/07/29

伊勢神宮の宇治橋

伊勢神宮の宇治橋

伊勢神宮の宇治橋を撮影したくなった。

伊勢神宮は今回が初めてではない。
かつて、山岳少数民族ヤオ族の始祖神話が記された「ギェセンポン」を見つけ出し翻訳に苦慮している真っ最中、『art Japanesque』日本の美と文化(講談社)で「庭園と離宮」の撮影依頼が入った。
1983年のことである。
ヤオ族の歴史に興味を抱いて黄金の山岳地帯にまで踏み込んだのに、そのくせ日本の文化に不案内というのはイカン、これからは日本を見直そうと固く決心した矢先だったので、タイミングよく声をかけてくれた松岡正剛さんに感謝した。

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