2025/08/06

仏の顔は一つじゃない

白仏

仏の顔は一つじゃない。

時が経って目鼻がすり減りあるいは欠損して白くなったお顔は、表情を失った分だけいかようにも見えてくる。少し怒っているようにも微笑んでいるようにも、知人の誰々のおもかげさえ浮かんでくる。さらに見つめていると自分の顔に見えることすらあってギョッとする。

白仏に出会いたくて国東半島へ来た。大分は磨崖仏や石仏の宝庫だ。

杵築市山香町の農道を歩き、さらに道から外れた坂道を登り、竹藪をかき分けた奥の暗い岩壁に石仏はあった。文字どおりひっそりと、岩窟の奥は眼を凝らさなければ見えないほどの暗がりである。
あたりの様子から察すると、以前に人が来たのはいつのことなのか。肩に枯葉が落ち、頬には蜘蛛が這った痕迹がある。

私が見つめているのは目の前にある石の仏から美を見出し、そこにはあり得ない大きなものを求めているのだとも思う。

一期一会という言葉を噛み締めている。


2025/07/29

伊勢神宮の宇治橋

伊勢神宮の宇治橋

伊勢神宮の宇治橋を撮影したくなった。

伊勢神宮は今回が初めてではない。
かつて、山岳少数民族ヤオ族の始祖神話が記された「ギェセンポン」を見つけ出し翻訳に苦慮している真っ最中、『art Japanesque』日本の美と文化(講談社)で「庭園と離宮」の撮影依頼が入った。
1983年のことである。
ヤオ族の歴史に興味を抱いて黄金の山岳地帯にまで踏み込んだのに、そのくせ日本の文化に不案内というのはイカン、これからは日本を見直そうと固く決心した矢先だったので、タイミングよく声をかけてくれた松岡正剛さんに感謝した。

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2025/07/27

白仏

白仏

路傍の白い石仏を撮り始めて10年以上になる。

伊勢神宮の宇治橋を撮影した途次、朝熊岳の金剛證寺奥之院にお詣りしたところ、横に石仏群があり、内の1体にとても心惹かれた。
大切に守られた地蔵たちから少し離れた場所だ。

時間と雨風、あるいは微生物などによるのだろうか、目鼻は摩耗して、それによりザラっとしたただの丸い石塊が黙ってそこにいらっしゃる。
仏師が心を込めて彫ったであろうお顔は、時間と環境にふさわしい形になり変わって、そのまま同じ場所に座っておられる。

陽光が落ちて、白いお顔がより一層白く輝いていた。

白仏に出会うと私はいつも「視線が合った」と思ってしまう。
 


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