2009/08/12

顔写真のリアリティ

僕が自分で自分の過去を考えた時に興味深いのは、何故、絵を描かずに写真を撮ることを選択したかという理由です。十代の頃は尊敬する先生について絵を描いていたので、そのまま何事もなければ、画家を志していたと思う。それが偶然にも写真に出会い、写真を撮ってみようかと思うようになった。だから、僕の写真に対する興味は、写真と絵画、それぞれ表現する世界の違いを認識することから出発したように思います。

絵よりも写真のほうが圧倒的に適しているのは、やはり「リアリティ」を表現することです。ただし、この場合の「リアリティ」は、見えたまま、実物そっくりの「リアル」です。1839年に写真が発明された経緯や、当時の絵画と写真の関係を調べてみれば、実物そっくりに描くために、写真ほど有効なものはなかったことがわかります。カメラオブスキュラを使って現れた映像を定着したいという欲求から写真術は発明されたと理解して間違いありません。ところが、この写真表現が得意とする「リアリティ」は、少々問題ありなのです。見えたまま、実物そっくりの「リアル」は、言い方を変えると、自然的写実です。知人を描いた絵を見て、「本人に似てるね、そっくりだね」と思う感想です。

しかし、「リアリティ」というのはもっと複雑な感情で、見た目と異なっていても、より深くその人を感じる場合があります。あれ、錯覚かな、と勘違いするくらい強く「リアリティ」を体感した経験は誰にもあると思います。

今朝、目が覚めて、枕元にあった『土佐日記』を開いたら文中に「かげみればなみのそこなるひさかたのそらこぎわたるわれぞさびしき」という歌が出てきました。月が波に映っていて、その月影を見ていると寂しい、と言ってるんですね。寂しい感情は作者である紀貫之さんの感想ですが、その寂しさが生まれてくる元になったのは、自然的写実とは異質な「リアリティ」です。舟に乗っている時に、波に映る月影を見て、まるで空を渡っている、空を流れているようだと感じているんですね。この時感じた「リアリティ」は、飛行機に乗って実際に空を飛んだ場合とは違う「リアリティ」で、もしかしたら実際の体験よりも複雑な「リアリティ」だったと思われます。だから寂しさも生まれてきたのでしょう。

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2009/08/10

午前四時四十四分

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八月二日に富山から戻り、三日は都内で打ち合わせ、四日からロケハンのために阿蘇へ行く。
熊本の雨は、あいかわらず凄い。雨が止む合間を縫って撮影場所を決めてきた。

このところ、ほとんど家にいる時間がとれず、九月五日に決まっている写真展のオープニングを考えると、お尻のあたりがムズムズする。
無理ないです。プリントどころか、まだ撮影すら終わってないのだから。

それにまた、多忙だというのに、さまざまなことを、いろいろ発見してしまうから余計に忙しくしてるのです。
わかっているけど僕の性分だから仕方ない。

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富山から戻った日は、そのまま打ち合わせもあり、帰宅したのが、深夜の零時を過ぎていました。車を停めて、さあ、家に入ろうと玄関の戸に手をかけようとしたその時、柱の中ほどに奇妙なものがくっついているのに気がついたのです。近づいてよく見たら、蝉が羽化の真っ最中だった。しばらく眺めているうちに、あることを思い出した。それは「ひぐらし」のことです。

以前、極楽寺に住んでいた頃、家の裏が山だったので、夏になると蝉しぐれに圧倒されんばかりでした。中でも「ひぐらし」の声がたまらんのです。「ひぐらし」が「カナカナカナ」と独特な音を発するのは夕方だけだとばかり思っていたら、明け方にも鳴くことを知ったのです。その明け方の「ひぐらし」の声が、まことに美しいのです。

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2009/07/31

ぼんぼり祭り

dscn1175今年もぼんぼり祭りが近づいてきました。

鎌倉鶴ケ丘八幡宮の夏の風物詩です。

毎年、八月七日から九日までの三日間、参道の両側から境内まで、約四百基のぼんぼりが灯されます。これらは八幡宮から依頼された各界の方々によってさまざまな図案意匠を凝らしたものなので、なかなか味わい深い祭りです。薄暮の頃、巫女さんの手で、一斉に蠟燭の火が灯される光景は、風情があって僕は好きです。

八幡さまに言われて、三年前から僕もこの祭りに参加するようになりました。
しかし、今年は仕事に追われて、ぼんぼり制作に着手できず、ついに締め切りの七月二十日を過ぎてもまだ手つかずの状態でした。それで八幡さまにお願いして、お渡しするのを月末まで延ばしてもらったのです。

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