橋

まだ暗いうちにホテルを出発して宇佐神宮の呉橋へ向かった。
神域への入り口であるが、この橋を渡った先には弥勒寺があったという。現在は礎石が残るのみで建屋はない。
橋を渡るというのは、こちらの岸から向こう岸まで身体を移すためだけにあるのではない。
渡りながら天地の間で呼応しつつ、魂を垂直に飛翔させるためにあるのではなかろうか。

まだ暗いうちにホテルを出発して宇佐神宮の呉橋へ向かった。
神域への入り口であるが、この橋を渡った先には弥勒寺があったという。現在は礎石が残るのみで建屋はない。
橋を渡るというのは、こちらの岸から向こう岸まで身体を移すためだけにあるのではない。
渡りながら天地の間で呼応しつつ、魂を垂直に飛翔させるためにあるのではなかろうか。

歳をかさねてもまだ写真を撮っているのだからね、本当に心動いたモノだけを撮りたいと思います。
日本的美意識とは何か問われると、すぐ頭に浮かぶのは「わび・さび」ですが、侘びを美の概念としてまとめたのは室町時代です。
「わび」は洗練されてる分、私には情緒的に傾いて感じられる。開き直ってるところは好きですけど。
出会う自然や物事の中で、本当に美しいと感じたのならその瞬間の自身の感性を信じたい。
「わび」よりもっと直感的で野性的で、奔放で、大胆でそれでいてやはり美しいと感じられる、そんな美意識に支えられた写真を撮ってみたいのです。
写真家としてデビューしたのは1971年だから今年で54年間私は写真を撮ってきたことになる。
当時を思い出そうとしてもディテールはどんどん不確かになっている。ただ確かなことは「特別な場所へ行き、ドラマティックな風景を写真に撮るのはなんだか違うなあ」と思っていたことだった。
旅ではなく別の次元で冒険したかったのだ。
何処か世界の果てを目指すよりも、自分はいったい何者だろう、何を考えて、何をしようとしてるのか。今、頭の中にあるボンヤリしたものを写真に撮れないか、と思っていた。
自分自身の自分一人を掘り下げて行き当たったものは、自分だけの問題ではなくすべての人に共通する物事に関わっていく予感があった。また、そのくらい深い問題を抱えた写真でないと撮る甲斐がないとも思ったのだ。
写真は目の前に存在する物事の表面を写すことで成り立っている。音や時間や匂いなど目に見えないものは写らない。それに、せっかく存在していても、カメラのフレームから外れたものは写らない。
自分が写真家として、生涯かけて相手にするのは、こうした写らないものを写真の対象として引き寄せ、どう写したらいいのかを考え、写真に残すことじゃないかと思った。
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