パン屋さん「ISHIKO」

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多摩美術大学で授業を持つようになって今年で9年目です。来年の3月で教授の定年が来ますので退職しなければなりません。自分の人生設計なんて、もともと何も持っていないのですから、何をやってもどうなろうと、別に驚くことは何もないのですが、大学教授の肩書きは自分にとって全くの予想外でした。若い人に対して丁寧に接することは、どちらかというと面倒なことだと思っていましたから、それほど長くはやらないだろうと思っていました。家人も僕を知る周囲の人も同じように想像していたでしょう。ところが実際に学生と接すると、情熱はあるし、学びたい、知りたいという欲望が強いので、授業初日からワクワクさせられたのを思い出します。
僕は3年程前からギャラリーとカフェをやりだしたので、その影響もあると思いますが、卒業しても教え子たちはしょっちゅう訪ねて来てくれます。

先日、姫路にある圓教寺に行きました。3日間の撮影が終わり、さて帰ろうかという時になって、そういえば、と思い出すことがありました。僕の最初の学生で故郷に帰ってパン屋さんを始めた教え子がいます。友人からは「イシコ」とニックネームで呼ばれていました。実家の住所は岡山県小田郡矢掛町というところです。
僕は大学に行き始めた最初の年の夏に、彼女の実家を訪ねたことがありました。広島の原爆資料館に展示されている「影」を見に行ったのですが、その帰りにちょうど帰省中の「イシコ」と「リサ」に会いに行ったのです。

姫路から岡山県矢掛町はそれほど遠い距離ではないのでは、と思って助手の山口君に確認したところ、「たいした距離ではないです。多分90分ぐらいで着くと思います」という返事でした。
「よし」とその場で「イシコ」に確認したら「もちろん今日も開店してま~す。でも、先生無理しないでいいよ」の声を聞いて電話を切りました。

矢掛町の役場の真ん前にパン屋さんはありました。
僕が想像していたより立派なお店です。
一人で粉をこね、焼き、そして自分で売っています。

「朝の4時には仕事始めてる。一人で50種類以上のパンを焼いてるよ」

美大のグラフィックデザイン科に入り、僕の授業を取って写真を学び、そして今は実家の近くに店を持って一人で黙々とパンを焼いてる。

「お客さんも増えてきた。評判も良くて大変だけど楽しい」

僕が訪ねた夕方には、ほとんど売れていた。
残り少なくなっていた商品からスタッフのお土産に幾つか買った。
いかにも美味しそうな香りがした。

「先生、絶対口だけだと思ってた。本当に来てくれるなんて涙が出ちゃうじゃない。」

立派にパン屋さんやってる姿を見たら、僕の方こそ泣きたくなった。
店の前で記念写真撮って、お土産持って帰りました。
また来るね、と言ったら、「遠いから無理しないでいいよ」だって。

また会おうね。

 

8 Responses to “パン屋さん「ISHIKO」”

  • いしこ |

    先生!ありがとうございました!
    これからも頑張ります!
    今度は私が会いに行きますねー!

  • 中東佐知子 |

    とてもいいお話ですね、心が暖かくなりました。

  • 清家正信 |

    十文字さんの優しい語り口が浮かんできました。生徒さんは大切なものを学ばれて行ったのですね。

  • 小川幸子 |

    そうですか、多摩美大で十年経たれたのですね!あっという間。でも、コレからは鎌倉伺っても、前より在廊率が高くなるのは、嬉しいです。河内さん共に伺いたいですが、地元の方々とイロイロと為さってる様です。先日は「切り干し大根を作って見ました」と写真付きのメールを頂きました。十文字さんも河内さんも
    作家?で在りながら、自然と仲良くして、、、年を重ねてる、、、私の尊敬する先輩です。また、伺いたいです。

    • Bishin |

      いつまで撮り続けられるかわかりませんが、写真を撮るのは天職だと思ってやっています。

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