顔から始まって

昨日(2/25)、多摩美術大学生涯学習センターで90分の講演を行った。朝から冷たい雨が降り続き、悪天候にも関わらず多くの方が来てくださった。

今回の話のテーマは「顔とデザイン」でした。講演の準備をしながら、う〜ん、どうしよう、と考えていました。僕は写真家なので、日常的に顔を撮影する機会は多いのですが、顔を撮る時にデザインを意識しているかというと、そんなことはありません。むしろ、デザイン的な要素を排除する意識が働いていると言えます。今まで撮影した顔の作品を見ながら、デザインとどうやって結びつけようかと考えましたが、ちょっと難しいので、結局、顔の話だけをすることにしました。

僕のデビュー作は「untitled」で、この作品は全身のポートレートです。画面の上下に全身が入るよう構図を決めてから、さらにフレームを下へズラし、首から上をフレームの外へ

押し出した写真です。発表した時にどなたかが「首なし」と名付けてくれたので、以後、通称「首なし」になってしまいましたが、作者である僕の感想では「顔なし」の方が近い気がします。フレームを下へズラした分だけ被写体が立っている地面が多く写っています。顔が無いことで、個人ではなく誰でもない人になってしまいました。ただ顔が切れただけでなく、足下の地面が不自然に多いことでなんとなく不安感を増しているように思います。この「なんとなく不安」というのを写してみたかったのです。写真は目の前にある見えるものを写す事が原則です。見えないもの、例えば「イメージ」とか「記憶」とか「想像」とか「空気」とか「時間」とか。「不安」もそうですね。そういう見えないものをどうするのだろう、見えないものをどう写真に写すのだろう、ということが僕の写真の出発でした。当時、目に見えない「不安」を写真にしようと試みた写真家は、あまりいなかったように思います。

僕は写真家になって今年で41年過ぎました。昨年の7月に母を亡くしましたが、母が亡くなる直前の2ヶ月ぐらいは見舞いに行くたびに母の顔を写真に撮っていました。日に日に、母に死が近づいて来るのを、顔を見ているだけで感じられました。入院から3ヶ月ぐらいでついに亡くなってしまいましたが、死の直後の顔も写真に撮りました。しばらくして、生前の母の顔、死んだ母の顔をプリントしてジッと見ていると、ある感想が浮かんできます。それは、生きている顔は僕の記憶や思い出、懐かしさ、といったさまざまな想いを重ねることができるのですが、死んだ顔には、僕の一種のセンチメンタリズムを拒否する凄みがあります。その大きな理由は、表情が無い、ということです。表情が無いことで、顔が顔だけの本来の姿になった気がします。今まで顔を撮った写真で「良い写真だね」といわれているのは、主に表情を撮った

ものが多い気がします。僕は母の死に顔を見て、顔には表情より強いものがあり、僕の感想などいっさい受け付けない厳粛なものが顔本来の在り方ではないかと思っています。そして、この厳粛な在り方は、顔だけに限ったことではなく、僕以外の存在している他者にすべて言えるのではないかと思うのです。人だけではなく、むしろ、人でないモノのほうがより強くそう感じます。

写真家になった最初の作品が「untitled」で「目に見えないものをどう撮るか」、から始まって41年経た現在、「外見の厳粛さ」に気付いた、というのは、どうなんでしょう。なんだか無駄な時間を使った気がしないでもありません。でも、この41年間のなんだかんだが、これからの僕の写真に反映されるものと信じています。

 

 

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