室伏広治さん

昨日から訪れていた愛知県豊田市から4時間前に帰宅。
詳しく言うと、中京大学キャンパス内ハンマー投げ練習場から戻りました。
室伏広治選手を撮影していたのです。

3年前から、チャンスを作って、機会あるごとに撮影していました。
多分、今回の撮影で一区切りだと思います。


室伏さんと初めて会ったのは、今から10年前の1999年、アリゾナのドライレイクでした。
当時、彼は25歳だったと思います。
キリンビールの「淡麗」という発泡酒のTVCFに、その頃、世界的レベルに近づきつつあった室伏選手を起用したのです。我々スタッフは先乗りして、見渡すかぎり真っ白な大地の中に、ハンマー投げ用のサークルを設置しました。ドライレークに行かれた方なら想像できると思いますが、それこそ、360度、どこもかしこも真っ白です。地平線から上は、濃紺ともいえるくらいの深い青空。群青色と白の世界に、たったひとつ小さなサークルだけが埋め込まれている。室伏さんは現場に到着するなり、美しい風景に感動していました。
撮影の内容は、地平線に向かって、思い切りハンマーを投げる、それだけの映像です。当時、オリンピックに向けて、世間が盛り上がっていたこともありますが、僕はテレビなどを通じて室伏さんに抱いていた印象が、「淡麗」のイメージにぴったり合うのではないかと思っていました。鍛えあげられた肉体の美しさ、端正な顔立ちに加えて、ハンマー投げという、あまりメジャーとはいえない競技に打ち込む真摯な姿が、「本物」を追求する企業の姿勢に合致すると考えました。

早速サークルの中に入り、ハンマーを投げようとした時に、室伏さんは「これでは投げられない」と言い出したのです。理由は、どの方向を向いてもすべて真っ白な大地、なんの目標もありません。何処に飛んでいくか解らないのでは、危なくてとても投げられない、せめてハンマーをリリースする瞬間の、何か目印になるものを置くことはできませんか?ということで、サークルから地平線に向かってある角度に赤いパイロンコーンを置いたのです。よく工事に置かれてあるものです。

室伏さんがハンマーを投げているところを初めて目の当たりに見た印象は、今でも記憶に残っています。
ハンマーを遠くへ投げるために、遠心力を利用しなければなりません。そのために、サークルの中で重量16ポンドのハンマーを回転させるのですが、まず自身の肉体を回転するのです。その際のハンマーの先端にある鉄球の回転スピードは、想像を絶するものでした。空気を切り裂き,唸りをあげ、そばで見るのが恐ろしいほどです。これでは、何か目標がないと、投げるのは無理だったな、と思いました。と、同時に、本当に目標がないと駄目なのだろうか、という疑問も湧いてきたのです。


どんなに速いスピードで回転しても、目の端にかすめた目標をきっかけにして投げる、というのは究極の完成した投法といえるだろうか。もしも、競技中にその目標が移動したらどうなるのだろう。動かないもの、例えば、建物とかポールとか観客席とか、そういうものにするのだろうか。だとすると、自分がハンマーをリリースする瞬間に、そのために、ちょうど都合いい目標を探さなければなりません。僕はもちろんハンマー投げの素人ですが、投げるための目標が外部に存在するのではなく、目標を、あるいはきっかけを、自身の体内に置くことは出来ないのだろうか、と思ったのです。回転の初動の位置さえ決まれば、あとはどんなに速いスピードで回転したとしても、ハンマーを離すポイントを一定させることができる。そのような技術を身につける練習方法はないのだろうか。
競技場によってサークルの条件も違います。滑りやすいのもあれば、逆になかなか滑らない表面のものもあるでしょう。気象条件だって違います。変わらないのは自身の体内にある理想のポイントです。

失礼だとは思ったのですが、撮影が終了してから、こんな意図のメールを送ったのです。
室伏さんは素直に反応してくれました。
それから、機会あるごとに、時々ではありますが、連絡を取り合っていたのです。主にハンマー投げについての話題が主ですが、そのうち、美術や芸術について、話題が広がっていきました。ローマ、ギリシャ彫刻についての室伏さんの感想はとても興味深いものがあります。

3年ほど前から、このことを記録しておこうと考えました。せっかく室伏広治という希有な人物と巡り会ったのだから、事実の軌跡を残しておきたい気持ちが自然に湧いてきたのです。
2004年、アテネで開催されたオリンピックでは、見事、金メダルを取りました。競技の性格から考えると、日本人がハンマー投げで世界一に輝くなど、考えられない奇跡的なことです。

そうして出版社も決まり、現在の予定では、来年の夏までに写真と文章で構成された本を上梓したいなあと思っています。

 

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