顔写真のリアリティ

僕が自分で自分の過去を考えた時に興味深いのは、何故、絵を描かずに写真を撮ることを選択したかという理由です。十代の頃は尊敬する先生について絵を描いていたので、そのまま何事もなければ、画家を志していたと思う。それが偶然にも写真に出会い、写真を撮ってみようかと思うようになった。だから、僕の写真に対する興味は、写真と絵画、それぞれ表現する世界の違いを認識することから出発したように思います。

絵よりも写真のほうが圧倒的に適しているのは、やはり「リアリティ」を表現することです。ただし、この場合の「リアリティ」は、見えたまま、実物そっくりの「リアル」です。1839年に写真が発明された経緯や、当時の絵画と写真の関係を調べてみれば、実物そっくりに描くために、写真ほど有効なものはなかったことがわかります。カメラオブスキュラを使って現れた映像を定着したいという欲求から写真術は発明されたと理解して間違いありません。ところが、この写真表現が得意とする「リアリティ」は、少々問題ありなのです。見えたまま、実物そっくりの「リアル」は、言い方を変えると、自然的写実です。知人を描いた絵を見て、「本人に似てるね、そっくりだね」と思う感想です。

しかし、「リアリティ」というのはもっと複雑な感情で、見た目と異なっていても、より深くその人を感じる場合があります。あれ、錯覚かな、と勘違いするくらい強く「リアリティ」を体感した経験は誰にもあると思います。

今朝、目が覚めて、枕元にあった『土佐日記』を開いたら文中に「かげみればなみのそこなるひさかたのそらこぎわたるわれぞさびしき」という歌が出てきました。月が波に映っていて、その月影を見ていると寂しい、と言ってるんですね。寂しい感情は作者である紀貫之さんの感想ですが、その寂しさが生まれてくる元になったのは、自然的写実とは異質な「リアリティ」です。舟に乗っている時に、波に映る月影を見て、まるで空を渡っている、空を流れているようだと感じているんですね。この時感じた「リアリティ」は、飛行機に乗って実際に空を飛んだ場合とは違う「リアリティ」で、もしかしたら実際の体験よりも複雑な「リアリティ」だったと思われます。だから寂しさも生まれてきたのでしょう。


再び話を写真に戻すと、何も考えずに写真を撮ったとして、写った世界は自然的写実世界です。写真が抱えている宿命として、この写ってしまう自然的写実世界が写真表現の特徴でもあり、限界でもあるのです。
写真表現の歴史をさかのぼってみると、初めは自然的写実をとらえることに価値があったのですが、一部の人たちは、見えただけの「リアリティ」では充分ではないと気がついた。それでどうしたかというと、一瞬を切り取ることで前後の時間を想像させる写真が撮れないだろうかと心を砕いたのです。もっと理想的な言い方をすると、一瞬で永遠を象徴させる世界を写真表現に望んだのですね。「決定的瞬間」という言い方をしてきました。写真家というのは、この「決定的瞬間」をモノにしようと翻弄されている人たち、と言ってよいかもしれません。素早い反射神経と環境に応じた適応力を発揮する醍醐味に浸ってきたのですね。現在でも、ほとんどの写真関係者は、見事な一瞬をとらえた作品に価値を与えようとします。

僕は写真を志した二十歳の頃に、なんとなく「決定的瞬間」にとらわれて表現に関わっていくことに不満を感じていました。いくら見事な瞬間に出会えたとしても、それはそれで、見えたまま、自然的写実世界の一断面だと考えていたのです。言ってみれば、『土佐日記」などに書かれた複雑な「リアリティ」に近づくためにはどんな方法があるのだろうか、というのが僕の写真の始まりでした。しかし、見たこともない架空の世界を創り上げるのではなく、あくまでも自然的写実世界に踏みとどまっていたかったのです。写真が得意とする自然的写実世界との関係は続けていきたいと思っていました。理由は、「現在」の不確かさを確認するためには、写真ほどふさわしいものはない、と考えていたのです。


顔の写真に限って話をすると、いかにもその人らしい見事な一瞬を狙っていると、いつの間にかその人の表情に照準を合わせてしまいます。最近のカメラの機能は優れているし、レンズも明るくなり、シャッター機構も進化して、二千分の一秒やそれより短い時間で表情を切り取ることも可能です。以前は、カメラの機能、レンズ、感光乳剤など、あらゆる要素が未発達ですから、同じ「決定的瞬間」でも一瞬ではなく、二分、三分、場合によってはもっと長い露光時間が必要でした。ですから、現在のポートレイトと十九世紀のポートレイトを比較すると、同じ顔写真でも、一枚の写真に写り込んでいる時間の長さが違うのです。

ものすごく前置きが長くなってしまいましたが、今回書いてみようと思ったのは「顔」の写真のことです。
僕が「顔」に興味を抱いているのは「表情」ではない何かです。被写体であるその人に出会った時に感じる、ある種の「リアリティ」を写真で表現したいのです。ある種の「リアリティ」とは、先ほどから話している複雑な要素を内包した現実感です。しかし、自然的写実の「リアリティ」が、写真であることの宿命ですから、あくまでもその特徴世界の中で、どうしたら僕が感じる複雑な「リアリティ」を表現できるかが問題になってしまいます。

デビュー作の「首なし写真」でフレームの外に押し出した「顔」を、あらためて見つけてみようと決心してから、ちょうど一年過ぎました。その間撮影した人数はどれくらいになるのか、それほど多くありません。多分、五、六十人だと思います。ただ、同じ方法で撮影した写真はありませんから、五、六十種類の方法を模索しながら撮影してきたことになります。最近になってやっと、複雑な「リアリティ」をつかまえた手応えを感じることがあります。まだ結論は出ていませんが、やはり、写真は時間なんだなあ、というのが実感です。現実は一瞬なりとも停止することはありませんから、本当の意味での現実感もそれにふさわしく、静止しては表現できない気がするのです。これは僕の予感ですが、写真表現の究極は、どうしても消えてなくなることだと思えて仕方ないのです。あるいは、そこにいないことによって生まれる感情を定着させることでしょうか。うまく言えませんが・・。

九月五日から、日本橋の「ギャラリー・ショウ」で展示するのは、今回撮影した顔写真の内のごく一部になると思いますが、ぜひ見に来ていただきたいです。また、近いうちに、今回模索撮影した「顔」写真の全貌もご覧いただける場を作ります。

 

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