観察者

1/1日から始まった作品展も、ちょうど日程の半分が過ぎました。おかげさまで大勢の方が来廊してくださり、喜んでいます。お忙しいにもかかわらずわざわざ足を運ばれたお客様にこの場を借りてお礼を申し上げます。

前回のブログにも書きましたが、「FACES lll」はモノクローム、「神殿」はカラー、両方ともに8×10インチのフィルムを使って撮影しました。当然仕上げたプリントもカラーとモノクロになりました。展示する時にその2種の作品をどう展示しようかと考えていましたが、1点ずつ交互に並べることにしました。二つの作品には共通点があると思ったからです。「FACES lll」で撮っている石仏も「神殿」で撮った花も、ともに時間の経過によって現在の姿になりました。両者はまったく違う被写体ですが、時の経過が現在の姿を作った、という意味では共通点があります。

写真は見えるものしか写りませんから、時間は写すことができません。目の前に存在しているモノを入口にして時間を感じ取るだけですが、モノはそう簡単にさまざまなイメージを侵入させてくれません。むしろ、イメージを拒否することによって存在しているとも言えます。写真を撮るという行為は、モノに付随している何かを連想させるためでなく、モノの中味を提示して外観に再び返る、という方が僕の実感です。撮影の技術は、そのモノの中味を提示するために習得しなければいけないものなのです。ここまで写真をやってきた現在の感想では、長い時間を費やして撮影の技術を習得したのは、結局、モノの外観を知るためだった、というのは逆説的な、あるいは皮肉のような気もして感慨深いものがあります。撮影するということは、観察すること以外のなにものでもありません。今回の作品を通じて、さらに再び深い観察者にならなければいけないと思っています。


モノの尊厳ということが最近の僕の関心事です。この場合のモノには、厳密に言うと人も含まれていますが、人をモノと同次元では扱えません。少なくとも、人は写真的に扱い難い。人を撮ってモノと同じくらいの高みにまで上げるには、人はあまりに表情がありすぎます。たいていの場合、人を撮った写真で「いい写真だね」といわれるのは表情が表にあらわれている場合が多いです。ところが僕はそう思いません。表情がなるべくあらわれていない人の写真に中味を感じて、再び外観に戻ることが出来ます。何言ってるのだかさっぱりわからない、と思われるかもしれませんが、今述べたことは、昨年死んだ母の顔を撮った時に実感したことです。

死に顔には表情がありませんでした。故に母の実体に近づけた気がして、それから外観に戻ってくることができました。

今回の作品はまだまだ撮り初めの入口に立ったばかりです。これから数年かかって、観察の結果を作品として再び提示したいと思います。

 

 

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