今の僕の頭の中
ここ数日前から、私的な時間に埋没しています。
次回の十文字美信写真展に向かって、頭が動き出しました。
やっと、という感じです。
毎日、毎日やらなければならないことが多いので、なかなか作品世界に没頭できませんでした。
展覧会スケジュールを考えると、もう、ぎりぎりのギリギリです。
作品展の開催場所は、多摩センター駅前にある「多摩美術大学美術館」です。
先日、下見に行ったのですが、館内の展示スペースが広いので、あれだけの空間を、ゆるむことなく保たせるのは、なかなか大変なことです。
「十文字美信全作品展」ということなら内容も点数も問題ありませんが、それには準備期間が足りません。
さあ、どうしようか?と思っているところに、大学の方からのお話で、「劇顔」を中心に構成したらどうか、という話が来ました。
「劇顔」という作品は、役者の「顔」を主題にした写真です。
1998年12月に、雑誌『シアターガイド』の伊藤芳樹さん、アートディレクターの太田和彦さんから「役者の顔を撮りませんか?」と声をかけていただいたのが、作品「劇顔」の始まりです。
もう12年が過ぎようとしています。連載は現在も続いています。
最近の撮影は、池袋にある「東京芸術劇場」で、野田秀樹さんを撮影してきました。7/8日です。
「劇顔」は、すでに143名の方を撮影しているので、美術館の広い壁面であろうと、量的には問題ありません。
ただ、展示効果を考えると、ある程度の作品の大きさが必要ですから、今までに撮影したすべての写真を展示するわけにはいきません。それで、写真を選ぶ作業をしなければならないのですが、これが結構シンドイのです。
どの写真も、それぞれ思いが籠められていて、愛着あるからです。
「劇顔」という作品は、舞台の開演直前、閉幕直後の役者さんの顔、というコンセプトで撮影してるので、写真を撮られる役者さんも、撮る僕も、両者にとって、撮影条件は劣悪です。
役者にとって、開幕直前、閉幕直後というのは、時間的余裕も精神状態も、場合によっては体調も良くありません。わざわざその悪い条件の中で撮影するのですから、役者にとっては、迷惑この上ないくらいです。
なんで、そんな悪い環境で撮影しなければならないのか?ということになるのですが、これは僕が「写真」という表現方法を信じているからなのです。
「役者の顔」というのを考えてみてください。
いつが「役者の顔」と考えたらいいのでしょう。
舞台で演じている時でしょうか?あるいは、休日の自宅で素に戻った時でしょうか?
どちらも僕には違う、と思えたのです。
役者ですから、基本的には役を演じてる時が最も役者らしいと考えますが、演じてる時はその役に成りきってるのでその役の顔でしかありません。役者の人間的な魅力まで顔に表れてるとは思えないのです。
では、いつが役者自身の人間的特色が表面に表れる時かと考えると、やはり、開幕直前、閉幕直後にあると思います。役の顔に成りかかっている時、あるいは、役から素の顔に戻りつつある時しかないと考えたのです。
おおざっぱに言うと、「写真」の魅力は、作品を見ている人のイメージをどれだけ参加させられるか、ということに関わってきます。ですから、あいまいな表現領域が必要なのです。どちらとも言えない瞬間、複雑で、一言では言えない瞬間が面白いのです。作家がすべてを語り尽くしては面白くないのです。
それに、「写真」は現実との濃密な接点で成り立っていますから、複雑な現実をなるべくそのまま真空パックするつもりでちょうどいいと思っています。
難しい話をするつもりはなかったのですが、きちんと話そうと思うと、思考の海に潜らなければなりません。
言葉は明快であるほどよろしいが、正しい言葉を使おうとすると、捨てるものが多すぎます。言葉で説明するというのは、写真でいうと「分解写真」を見るようなもので、肝心なのは写真と写真の間にあるものなのです。
写真と写真をつないでいるものをどれだけイメージできるか、なのです。捨ててしまった言葉の中にこそ核心が含まれていることが多いのです。
ブログに書き込むには、ふさわしい内容ではなくなってきましたが、つまり、今の僕の頭の中は「写真」でいっぱいになりつつあるのです。