二人展の作品(2)
今回の作品展に出品する「神殿」は、枯れかけている花を撮ったものです。
盛りを過ぎた花は、環境に合わせて徐々に姿を変えていきます。鮮やかだった色彩は少しずつ退色して、終いには冷え枯れた色だけになり、さらに時間が経つと落ちてしまいます。花によっては退色せずに、いつまでも鮮やかな色彩を保ち続けているものもありますが、それも若々しい盛りの色とは違います。退色していく過程のどの段階も美しいと思います。過程の一つ一つに色名前をつけたくなります。紫色の花も、時間の経過によって紫色が微妙に変わっていくその過程が美しい。
昔は自然の素材で衣服を染色したわけですから、退色していくことが当たり前で、退色したそれぞれの色を合わせて楽しんだのが十二単の始まりなのではないでしょうか。
いつまでも色が変わらない、なんていうのは、それこそ「野暮」なのでは、と思ってしまいます。
また話が逸れていきそうなので、写真に戻します。
我が家には、昔に生けた花がそのまま残っています。すべて残しているわけではありませんが、気に入った花は、捨てずに置いて楽しんでいます。古いのは3年ぐらい前の花もあります。もっと以前のものもあるかもしれませんが、正確にはわかりません。家の廊下や床の間、家内や僕の部屋の一部は枯れた花でいっぱいです。
色彩だけでなく、「かたち」も花はその環境に合わせて徐々に変化していくのです。
温度や湿度、風や空気の流れ、、自身の性質などによって、自然に形を変えていくのでしょうが、
その姿は絶妙な美しさで、僕の想像を超えています。花が自然に決定していく「かたち」は予測できません。
写真にふさわしい被写体を選ぶ場合、光に影響された状態であることと、時間に関連した要素を含んでいることを心がけています。
特に時間は目に見えませんから、時間を目に見える姿で表すことは、写真が持っている大きな特徴の一つだと思います。写真が記憶と密接に関連しているのは、言い方を変えると、時間の一つの表れ方だともいえます。
ただ、目の前に在るものを写真で撮りたい、と思う衝動は、思考や知識で動くわけではありません。普段考えていることが影響しているのは充分考えられますが、「写真に撮りたい」と決断するのは、やはり、「直観」としかいいようがありません。
「直観」の中身を開いて言葉にしたいのですが、どうもそこまでの粘り強さがありません。
「写真は写っている画面だけで完結しているのは面白くない」と言いましたが、面白い写真には条件があります。写っている画面が完璧であることです。この場合の完璧は技術的なレベルのことです。写真でいうと、撮影の技術、プリントの技術です。
自分が写真に関わっていて思うのは、技術的に劣っている写真は赦せません。
技術は努力で何とかなります。
ですから、技術的に到達していない写真は納得できないのです。暗室作業に関しては、殆ど職人的な気質を要求されます。写真のプリントは職人の技です。
面白い写真の条件は、画面が技術的に完璧であることがスタートです。
写真のことを言い出すと、話したいことが多すぎてまとまりません。
少しずつ答えを見つけて書いていくので、ややこしいですが、しばらく付き合ってください。