2011/07/28

今朝のこと

母の初七日も終わり、今はあっという間に時が過ぎ去っていくのを感じています。
生前、それほど頻繁に母と会っていたわけではないのですが、いるといないとでは、心のありようが随分違います。やはり、心のどこかにポッカリ隙間が空きました。

今朝、僕が撮影した母の写真をあらためて見ました。
母が息をしている最後の顔、息を引き取った直後の顔、翌日の顔、納棺の際の顔、すべて撮影しました。
写真は不思議です。
まったくの無表情な顔から時間が経つにしたがい、少しずつ母が遠ざかっていくのがわかります。
生きている顔も死に顔も、どの顔も好きです。これが愛情なのでしょうね。
顔の表面からは、何もかもが消えて、本当の母だけになったとても可愛い顔でした。

カメラを構えている時は、不思議に思えるくらい肉親の情が湧きません。被写体をどう撮るか、ひかりはきれいか、ピントはどこに合わせるか、クローズアップはどのくらいにするか、などなど、ほとんど無意識で、ピントグラスに写っている映像に没入しているのでしょう。無理に言えば写真家としての本性だと思います。
ただ、ひとつだけ撮らないものがありました。撮らないというより、撮りたくなかったものです。
それは、焼かれた骨が火葬場の炉から引き出された時です。
小さな焼けただれた骨が、人が寝ている形になっていました。
母の骨だとわかっていても、僕と目の前にある人の形の骨とは、ものすごい距離を感じました。
撮る意欲が湧きませんでした。
ああ、母はこの世から消えた、という醒めた感覚だけがありました。

続きを読む


2011/07/15

涙よ、止まれよ。

午後12:40分、告別式場を出発。

僕は喪主なので、霊柩車の助手席に座った。
膝の上に母の位牌を乗せている。
車の後部スペースには、たった今お別れした母が横たわっている。
久保山火葬場まで約30分弱と聞いている。
霊柩車の運転手は静かに車を走らせる。

不思議だなあと思う。

この数日間、母の臨終から葬儀まで、あまりにあわただしかったせいか、それほどの哀しさも感じられなかった。
ところが、車が信号待ちしている間、気がつくと、涙があふれている。
それも、とめどなく流れ出てくる。
幼かった頃に暮らした母とのさまざまな情景を思い出したからではない。
記憶をたどっていたわけではないのに、しらずしらず、静かに涙があふれでてくる。

7月12日、午前10時50分、母は息をひきとった。

続きを読む


2011/07/01

「浮いたか瓢箪」

鎌倉市倫理法人会主催の「イブニングセミナー」が無事終了。
ギャラリーの定員(といっても、こちらが用意できる椅子の数、ということですが)30人のところ、40名以上の方が来られました。
嬉しいです。

2009年に作った「おわら風の盆」の映像を、久しぶりに観ました。

左右5、5Mのスクリーンに映し出される映像は迫力ありました。
CANON 7Dのカメラ、そしてブルーレイの画像はさすがです。

続きを読む


1 218 219 220 221 222 223 224 249

permalink :

trackback :