今朝のこと
母の初七日も終わり、今はあっという間に時が過ぎ去っていくのを感じています。
生前、それほど頻繁に母と会っていたわけではないのですが、いるといないとでは、心のありようが随分違います。やはり、心のどこかにポッカリ隙間が空きました。
今朝、僕が撮影した母の写真をあらためて見ました。
母が息をしている最後の顔、息を引き取った直後の顔、翌日の顔、納棺の際の顔、すべて撮影しました。
写真は不思議です。
まったくの無表情な顔から時間が経つにしたがい、少しずつ母が遠ざかっていくのがわかります。
生きている顔も死に顔も、どの顔も好きです。これが愛情なのでしょうね。
顔の表面からは、何もかもが消えて、本当の母だけになったとても可愛い顔でした。
カメラを構えている時は、不思議に思えるくらい肉親の情が湧きません。被写体をどう撮るか、ひかりはきれいか、ピントはどこに合わせるか、クローズアップはどのくらいにするか、などなど、ほとんど無意識で、ピントグラスに写っている映像に没入しているのでしょう。無理に言えば写真家としての本性だと思います。
ただ、ひとつだけ撮らないものがありました。撮らないというより、撮りたくなかったものです。
それは、焼かれた骨が火葬場の炉から引き出された時です。
小さな焼けただれた骨が、人が寝ている形になっていました。
母の骨だとわかっていても、僕と目の前にある人の形の骨とは、ものすごい距離を感じました。
撮る意欲が湧きませんでした。
ああ、母はこの世から消えた、という醒めた感覚だけがありました。
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