2012/02/11

元気です。

しばらくブログの更新が出来ませんでした。もしかしたら、あいつ具合でも悪いのでは?と気にしてくださる方もいらっしゃるかもしれません。元気です。

作品展が終了した時点で、感想などもこの場で書きたかったのですが、なかなか思うような時間がとれません。先月末は、大学の入学試験立ち会い、海外ロケ、今月になって2つの写真審査、大学入試判定、その間にレギュラーで続いているCM撮影、個人的な作品、そしてカフェの焙煎などが、一気に押し寄せて、PCの前にゆっくり座ることも出来ませんでした。

「GARELLY B」で行われた作品展は、たくさんの人が観に来てくださいました。この場を借りて心からお礼を申し上げます。お忙しいにも関わらず、遠方からはるばる来てくださった方も、近くにお住まいの方も、本当にありがとうございます。作品を購入された方もいらっしゃいました。私の分身のような写真をお手元に置いてくださるというのは、言葉に書けない嬉しさです。撮り続けてきて良かったと思う瞬間です。

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2012/01/17

観察者

1/1日から始まった作品展も、ちょうど日程の半分が過ぎました。おかげさまで大勢の方が来廊してくださり、喜んでいます。お忙しいにもかかわらずわざわざ足を運ばれたお客様にこの場を借りてお礼を申し上げます。

前回のブログにも書きましたが、「FACES lll」はモノクローム、「神殿」はカラー、両方ともに8×10インチのフィルムを使って撮影しました。当然仕上げたプリントもカラーとモノクロになりました。展示する時にその2種の作品をどう展示しようかと考えていましたが、1点ずつ交互に並べることにしました。二つの作品には共通点があると思ったからです。「FACES lll」で撮っている石仏も「神殿」で撮った花も、ともに時間の経過によって現在の姿になりました。両者はまったく違う被写体ですが、時の経過が現在の姿を作った、という意味では共通点があります。

写真は見えるものしか写りませんから、時間は写すことができません。目の前に存在しているモノを入口にして時間を感じ取るだけですが、モノはそう簡単にさまざまなイメージを侵入させてくれません。むしろ、イメージを拒否することによって存在しているとも言えます。写真を撮るという行為は、モノに付随している何かを連想させるためでなく、モノの中味を提示して外観に再び返る、という方が僕の実感です。撮影の技術は、そのモノの中味を提示するために習得しなければいけないものなのです。ここまで写真をやってきた現在の感想では、長い時間を費やして撮影の技術を習得したのは、結局、モノの外観を知るためだった、というのは逆説的な、あるいは皮肉のような気もして感慨深いものがあります。撮影するということは、観察すること以外のなにものでもありません。今回の作品を通じて、さらに再び深い観察者にならなければいけないと思っています。

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2011/12/30

作品展「FACES lll」「神殿」

DM_A

作品の展示は昨日で終わりました。解説やネームはこれからです。

いつもいつも、ぎりぎりになってしまいます。

展覧会の展示の度に思うのは、自分が撮った写真なのに他人の作のように感じてしまうことです。自作を前にしてるにもかかわらず、ちょっと不思議な感覚です。まったくの他人が撮った写真を見てるとも違うのですが、どう説明していいのかむずかしい。その作品を撮影している間の興奮はありません。どう撮ろうか、あれこれ考えている時の熱気みたいなものは無くなっています。醒めている、とも違って、写真が僕から少しずつ離れていってる感覚です。特に、展示してる時に顕著にあらわれる感覚です。

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自分が撮った写真に間違いないのに、僕とは関係ない思いを作品が持ち始めているような気がします。作品が勝手に生き始めてる、とでも言ったらいいのでしょうか。作品そのものにエネルギーがあるものと、割合つつましい作品とがあって、僕から離れていく行き方も違いますし、いつまでも僕から離れたがらない作品もあります。僕だけにしか感じない勝手な感想ですが。

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