「Pink」

1971年6月、六本木交差点で当時雑誌『anan』編集者椎根和(しいね やまと)さんにバッタリ出会った。
『anan』以前の椎根さんは『平凡パンチ』編集者で、当雑誌のグラビアページを加納典明さんが撮影する際の担当編集者だった。私が六本木スタジオで働いている頃、加納さんに呼ばれて何度かお手伝いさせていただいたことがあり、その都度椎根さんにとてもお世話になっていた。

「今何してるの?」「何もしてないんです」「ananの写真撮る?見開き1点だけど」「やらせてください!」こんなやりとりがあった。
私は篠山紀信さんの助手仕事を辞めたばかりだった。将来のアテもなく、ひとまず即席ラーメン、焼きそばを大量に買い込み飢えを凌ぐ方法を考えていたところだったので、椎根さんからの話は渡りに舟だった。
「ひとつお願いがあります。最高のスタッフとやりたいのですが、、、」
多分、これが最初で最後の仕事になると思ったので、思い切って椎根さんに言った。写真家としてやっていくには精神力が弱いと自覚していた。
服は三宅一生さん、ヘアーメイクは伊藤五郎さん、スタイリストは木村シゲルさんの名前を出した。助手時代に経験した中で彼等は最高のセンス、技術をお持ちのプロフェッショナル達だと思っていた。
「うーん、面白いから頼んでみるけどやってもらえるかどうか」。
当たり前だよね、これからデビューする新人カメラマンの撮影に三宅一生、伊藤五郎、木村シゲルのスタッフを組むなんてとても考えられない。
ところがです、3人の方すべてOKの返事だったのです。しかも撮影当日全員現場に来てくださることになった。

それからが大変だった。
ロケーションで撮るとだけ決めていたが、何処へ行ったらいいかわからない。
取り敢えず軽井沢へ行けばどうにかなるかも、そう考えた。何故軽井沢だったのかは覚えていない。
当時私の姉が藤間勘右衛門(尾上松緑)さんの内弟子になっていて、赤坂紀尾井町にあった藤間さんのご自宅に住み込みで働いていた。ある日、姉を勝手口へ呼び出し、お金を借りた。
軽井沢へロケハンに行く電車賃が無かったのだ。
軽井沢駅を降りて周辺を歩き回り、ついに気に入ったお屋敷を見つけた。特に庭が素晴らしかった。玄関入り口に車椅子が置いてあるのを見て、ドラマチックな映像も浮かんできた。なんとかなりそう、なんとかしなければの気持ちで張り裂けんばかりだった。
声をかけ管理人さんに撮影をお願いしたら、「いいですよ」の返事をいただいた。
作家水上勉さんの別荘だった。
数カット分のスケッチを描き、その日は帰った。本番の撮影日まで数日あったので、後日再度訪問し、管理人さんとも打ち解け、具体的なアングルも決め詳細なスケッチをしたため準備万端で撮影に臨んだ。

ところが、ところがです。
撮影当日撮影現場である水上邸へ伺ったところ、管理人さんから「悪いけど、今日は先生が来るから撮影はお断りします」と言われてしまったのだ。
さあ、困った。
ひとまず、三宅一生さん伊藤五郎さん木村シゲルさん椎根和さんモデルの浜美樹さん達は駅前の喫茶店でお茶を飲んでいただき、その間になんとか撮影場所を探さなければと焦りまくった。
軽井沢の街、通りという通りを走りながらどうにかしなければの焦る気持ちと責任感で、泣きそうだった。いや、正確には24歳の男が泣きながら走っていた。
と、人の気配もない古い洋館があった。窓から内を覗くと全ての家具に白い布が被せてある。ここしかない、多分決死の形相だったと思う。大声で叫ぶと館内から人が出て来た。「三笠ホテル」といい、一年前に営業をやめたばかりだと言う。撮影をお願いすると「どうぞ」だった。

三宅一生さんのシルクのドレスを着たモデル浜さんをソファに座らせ、「ふてぶてしい顔で横たわってください」と声をかけた。私がプロの写真家としてデビューした初めての撮影が始まった。ガラス窓の外側にある網戸の緑色が美しい効果を発揮した。
途中、ファインダーを覗いていると、木村シゲルさんが近づいて来た。カメラを構えてる私の左手をチョンチョンと突いて「じゅーじ君、手が震えているよ」だって。さんざん走ったから息が切れていたんだ、そう思ったら、逆に落ち着いてきた。

ソファ、通路、白くて古いタイルのバスルーム、水がないプールなどで撮影した。
最後の最後に着ていた一生さんのドレスを脱いでもらい、ザブザブ水に浸け、ずぶ濡れのドレスを裏庭に張ってあった紐に吊るした。
ファッション写真は人々に夢を与える、どちらかといえば虚構の世界に属すると思われるが、今この時この場の現実に属してこそファッションに価値が与えられる、と咄嗟に思いついた。それに、脱いだ服でもファッションになるのかどうか、試してみたかった。

三宅一生さん、伊藤五郎さん、木村シゲルさんそして椎根和さん、この人たちのお陰で私は写真家として出発出来たのです。

後日、現像した写真を見た三宅一生さんから「シルクのドレスを洗濯しちゃうんだからねー、じゅーじ君、いいよ、とても面白いよ」と感想をいただいた。そのせいもあったのだろうか、見開き2ページだった予定が掲載された時は10ページに増えていた。

私の写真家としての仕事デビューは、雑誌anan 1971年10月号、タイトルは「Pink」だった。

「Pink」
「Pink」
「Pink」
「Pink」


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