ウクライナ「Japan Mania」展

ZANKETSU rectoZANKETSU verso

9/11、ウクライナのキエフへ行く予定です。
当地で9/13から「Japan Mania」展が開催され、僕の作品が招待されることになりました。

ウクライナ日本文化センターが主催で、日本のさまざまな魅力をウクライナの人達にいっぺんに知ってもらおう、という興味深い企画です。僕がパリに来てからこの話がまとまったので、まことに急転直下、満足な準備期間もなく、手持ちの作品を展示するしかありません。

せっかくの機会です、最新作でまだ未発表の「残欠」という作品を持っていくことに決めました。

僕が参加するに当たっては、パリ在住の友人市田Kyoさん、Fumikoさんご夫妻、齋藤しおりさんの骨折りがあって実現することになりました。
僕にとっては晴天の霹靂のような唐突なお話でしたが、ウクライナという国に対する興味に強く惹かれてすぐに参加の決心をしました。


「残欠」とは、長い年月の間に欠損した仏像の断片です。
完全な姿ですと、それは仏像ですが、「残欠」になると、仏像とは言えなくなります。
時間が降り積もって、造立当時とは全く違う造型に変わっていきます。見る人に表情よりも深いものを想起させます。少なくとも僕はそうでした。白蟻に食われ、ネズミのような小動物に囓られ、腐蝕し、欠け落ちてなお存在している断片は、美しく、力強く、経年変化を体現しながら、光を当てられるのを待っているように思えました。

日本には「わび」や「さび」という伝統的な美的概念がありますが、「残欠」はある時代に確立した知的な人の「あわれ」や「枯淡」を尊ぶ感性の原点となるべき存在です。モノによっては1000年という時間が、仏師の彫刻刀の刃の痕跡を消し去って、新たな風貌を付け加えていきます。

僕は写真というものは、目の前にあるものを正確に写し撮ることを前提に、見る人のイメージが重なって初めて完成されるものと信じています。
ただ目の前にあるものを撮るだけでも駄目。また、イメージが独走しては写真になりません。
デビュー作の「首なし」以来、ずっとこの考えを試し続けてきました。
「残欠」もまたそうしたテーマの新たな挑戦です。

以下に、今回の「Japan Mania」展で講演する際の資料として書いた簡単な説明を添付します。

これらの作品は、まるで人体の一部のような迫力がありますが、胴体を1本の樹木から彫り出した木彫像の一部です。像高3mです。骨格や筋肉の躍動感を忠実に再現しようと試みた時代の作品です。
写真の被写体は、「金剛力士像」の「残欠」(部分)です。東京から約150kmに位置する筑波山の麓、天台宗薬王院にありました。山門に安置され、悪霊が侵入してくるのを防ぐ役割を担っています。像の制作年代は西暦1200年代で、日本の鎌倉時代です。今から800年以上前に造られました。

当時、文化が栄えていた奈良に工房を持つ仏師集団慶派けいはが現地に出張して彫ったと想定されます。
部分を写真で撮る理由は、完全な姿の仏像の場合、仏教や仏像という既成の世界観で鑑賞しがちですが、「残欠」を解体したままの状態で撮影することによって、造られた時代や表現に対する仏師の人間的な生々しさを想像することができます。完結された仏像とは違う、写真表現にふさわしい、まるで生きているようなリアリズムです。

冒頭に掲載した2葉の写真は、「Japan Mania」展のために出品する僕の作品を、市田Kyoさんがデザインしたフライヤーです。

 

 

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