似絵(にせえ)

9/18日、「劇顔」と「FACES」展がオープン。
場所は多摩センター駅から5分にある多摩美大美術館

写真はやはり壁に掛けるとよく見える。
出来が良く見える、という意味ではなく、テーブルに置いて見たのと違った印象になる。
いつもそう感じるけど、それって何故だろう。
水平に置かれた作品は斜めの角度から見ることになるから、何かがきちんと見えていないんだね。
正対する、というのは受け止めるために必要な行為だと思う。
特に、顔に関していうと、撮影する際には、まずはじめに正面の位置から見なければいけない。
横顔が魅力的な人も多いけど、それでも、正面顔を見ることから出発したいんだ。

しかし、あらためて考えてみたら、写真を撮る、という理由があるから人の真っ正面に立てるけど、そうでなかったら、人と正対するのはなかなか難しいし,勇気がいる。
もしも俳優の高倉健さんと初めてお会いして、カメラもなく手ぶらで正面から顔を凝視する、なんてことができたとしたら、そいつは度胸ある行為だと思う。
別に高倉さんを例にするまでもないけど、以前、実際に高倉さんを撮影した時に本当にそう思った。
「カメラがなかったら、ここまでマジマジと顔を見つめられないだろうな」と。


今回の作品展に出品した写真は、「劇顔」も「FACES」も共に顔をテーマにしたものです。
今から約180年前に、写真術が化学的に発明される以前から、古今東西、人はずっと顔に興味を持ち続けてきました。
日本でも、11世紀、12世紀には盛んに「絵巻」が作られ、その中にも当然人物が描かれています。当時の「絵巻」に描かれた顔は、引目鉤鼻と言われるもので、みな一緒。目は一線、鼻は鉤型、無性格に描いています。ただし、これは貴族のみ、庶民は区別して描かれました。なぜ貴族は顔を無個性にして同じに描いたのか、興味あるところです。
現存する絵巻の中で、下書きだけが残っているものがあります。それを見ると、輪郭だけが描かれていて、目鼻立ちは空白のままですから、面貌だけを描く絵師がいたと想像できる。

「似絵」という言葉が最初に文献に登場するのは、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」です。
「似絵」というのは似顔絵ですから、当然その人の特徴を的確にとらえなければならない。誰が見てもそっくりと思わせなければならないし、描いたモデルその人にも「いいですね」と言わせなければならない。
当然、上手下手がでてくるし、人気があるないもでてきます。
13世紀になると、似顔絵の名人といわれる人が登場してきます。
後堀河院という天皇が、当時公家社会で流行した八つの分野から名人を決め、画巻に描いたのです。
似絵、詩、和歌、能書、音楽、神楽、競馬、説法、の8項目。
それぞれの道の達人、名人を選び、その似顔絵を描かせました。
描いた絵師は、藤原信実(1176?〜1266?)という男です。
この人物は生年月日も、没年月日もわかっていません。
源頼朝像や平重盛像を描いて有名な藤原隆信の息子です。


僕は「似絵」の文献をあたっていて、見るなり感心して唸ってしまった絵があります。
花園法皇を描いた絵です。
花園法皇を描いた絵は3種現存していて、天皇在位像、梅津長福寺蔵、妙心寺蔵です。
描かれた時期が違うので、天皇の年齢はもちろん、風貌も違うのですが、人間的な特徴は共通していて、どの絵からも感じられます。
特に、梅津長福寺蔵の絵が凄い。
花園天皇の人間性まで感じてしまう。
描いた絵師は藤原豪信といい、藤原信実から四代後に現れた名手です。
もちろん花園天皇に会ったこともないのに、人間的な特徴をあますところなくとらえている、なんて、何を根拠に言うのか、と思われるかもしれませんが、この絵を見ればわかります。
僕が見たのは図版で、オリジナルではありませんが、絵の凄さは図版で充分伝わります。

花園天皇像(藤原豪信筆、長福寺蔵)
 
 
 
 
 

いったい全体、人格とか個性とか、その人らしさとは、なんなんだろうね。
今僕が言えるのは、その人の顔に現れるのは表情だけではない、ということ。
何ていっていいかわからないが、表情の奥にあって表情を支えているもの、それが見えなければ、顔は見えていないと同じです。

藤原豪信のような名人が似絵を描く時に見ていたものを、写真で撮ってみたいね。

 

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