2009/07/31

ぼんぼり祭り

dscn1175今年もぼんぼり祭りが近づいてきました。

鎌倉鶴ケ丘八幡宮の夏の風物詩です。

毎年、八月七日から九日までの三日間、参道の両側から境内まで、約四百基のぼんぼりが灯されます。これらは八幡宮から依頼された各界の方々によってさまざまな図案意匠を凝らしたものなので、なかなか味わい深い祭りです。薄暮の頃、巫女さんの手で、一斉に蠟燭の火が灯される光景は、風情があって僕は好きです。

八幡さまに言われて、三年前から僕もこの祭りに参加するようになりました。
しかし、今年は仕事に追われて、ぼんぼり制作に着手できず、ついに締め切りの七月二十日を過ぎてもまだ手つかずの状態でした。それで八幡さまにお願いして、お渡しするのを月末まで延ばしてもらったのです。

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2009/07/23

近況

前回の書き込みから、ずいぶん日にちが過ぎてしまいました。

蓼科、大阪とロケが続き、その間にも対談、講演、大学の授業と休みなしで動いていました。
何よりも、少しでも余裕があれば、9/5日から始まる個展のための撮影に時間を使いたかったのですが、それもままならず、どうなりますか。

ちょっと他人事みたいに聞こえたかもしれませんが、とんでもないです。寝ても覚めても、写真のことばかり考えています。
以前、「フレーム」というタイトルで、次の展覧会にふさわしい写真フレームについてささやかな感想を書きました。
現在も、今撮っている写真にふさわしいフレームをずっと探し続けているのです。

京都の「三角屋」さんから、江戸時代の栗の柱材で作ったフレームが送られてきて、暇を見つけてはそれを必死で磨いた結果、僕のイメージどおりの質感が出来たのですが、写真を嵌めてみたら、・・・なんだか違うのです。
どう言ったらいいのかわかりませんが、あまりに材が主張して、フレームが物質的になってしまい、肝心の写真が一枚の紙になってしまうのです。写真は印画紙なんだから、紙で当たり前と思われるでしょうが、そうではなくて、僕としては、作品を目の当たりにしたら、当然ながら写真の中身、表現してる世界に気持ちが飛び込みたいわけです。
フレームひとつ取り上げても、問題山積です。

以前も書きましたが、僕のデビュー作品は、首から上をフレームアウトした「首なし写真」だったので、いつか、あのときに見失った首から上、つまり「顔」を撮ってみたいと思い続けてきました。それからいつの間にか38年という時間が過ぎてしまいましたが、最近になって、猛烈に「顔」を撮りたくなったのです。今までも「顔」にこだわっていましたが、「首なし写真」にふさわしい「顔」を発見できないでいました。ところが、ついに見つけました。あの時見失った「顔」を38年ぶりに見つけ出しました。見つけたその「顔」は表情がないのです。だからといってもちろん死んでるわけではありません。表情がないくせに一言で言えない複雑な「顔」をしているのです。

写真というのは、一瞬をとらえる芸術として成立してきた歴史があります。
人の顔を例に挙げると、一瞬の表情をつかまえる醍醐味に、写真家は拘束されてきたように思います。最近、僕は一瞬という時間から自由になってもいいのでは、と思っています。言ってみれば、「決定的瞬間」からの決別です。
一瞬は具体的ですが、切り取らない時間は抽象的に見えます。僕が今撮っている「顔」は、輪郭だけが残って、そのうち消えて無くなる予感がします。今のうちに残しておきたいのです。

「顔」や「写真」に興味がある方は、9/5日から開催する僕の写真展「FACES」に、ぜひ来ていただきたいです。

 

2009/07/11

大坂屋与兵衛

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またまた京都に関係した話が続きます。

先日、鎌倉の古書店「公文堂書店」にて、偶然おもしろい本を手に入れました。
宇高随生さんが書かれた『写真事始め』です。奥付を見ると初版は1979年ですからそれほど古い本ではありません。
発行は京都の柳原書店です。
幕末に京都で活躍した写真師大坂屋与兵衛に関する記述が大半で、これがとても興味深いのです。

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