写真と珈琲のバラード(36)
11月になり、北海道北端の利尻島、礼文島へ行く。
次の作品「修羅」の撮影のため。
いつも思うのだけど、写真を撮るきっかけは何だろう?何故北海道ですか?何故滝なんですか?何故バラバラになった仏像なんですか?とよく尋ねられる。
正直、説明出来るような明確な理由は、自分にもわからない。その時その時になんとなく心の中に引っかかったものがあって、それが自然に膨らんでくるのです。今は10代の頃からの友人藤崎が亡くなったことが膨らんでいます。
写真集『感性のバケモノになりたい』に掲載した藤崎の写真を見つめているうちに突き上げて来るものがあり、かれが亡くなった最後の地、羅臼に行ってみました。そこで共通の友人と会っているうちに、さまざまなことが心に去来しました。グレてやんちゃした少年の頃、嫌でも社会という共同体のなかに入らざるを得なかった青年時代、そして今はヒタヒタと終焉が近づいているのを自覚する老境にさしかかっています。
振り返ってみると人生って哀しいね。
ひと言で言うとやはり人生は哀しい。もちろん長い時間の過程には楽しいことがたくさんありましたが、楽しい経験をした分だけ、哀しい気持ちが折り重なって溜まっています。この感情は嫌いではありません。むしろとても大切な気持ちとして、大事に保存しています。保存する時に、清々しい気持ちという箱の中に入れてしまうのです。
この「清明な哀しみ」と言うべきでしょうか、これを写真に撮れないだろうか、と思うようになってきたのです。
やはり言葉で言うのは難しい。写真に撮るのはもっと大変ですが、自分の中に本当の気持ちがあれば見えてくるでしょう。
いつ始まって、いつ終わるのかわかりませんが、今膨らんできた気持ちを育ててみたい。