多摩美術大学十文字美信・最終講義(8)「らしさ」について。
約、10ヶ月ぶりのブログ更新です。
昨年定年退職した多摩美術大学での講義を、忘れないうちに書き留めようと始めた話も昨年の4月を最後に中途で止めていました。ひとまず講義を続けます。
第3期は、「らしさ」についての授業です。
日常的によくこんな会話を耳にします。
「ねえ、あれっていかにも・・・さんらしいよね」
この時の「らしい」とは、何を指してそう思ったのでしょうか。
その人らしい個性や特徴を自分なりに掴んで、その特徴を共有出来たら、と思ったのでしょうか。
もし、その人の個性や特徴が本当に掴めたとしたら、人物写真を撮る時に手掛かりとしてこれほど心強いことはありません。
「その人らしい写真」が、人物撮影の基本ですから。
ところがです。「その人らしい」と思っていることが、実は案外頼りなくて曖昧なことが多いのです。
家族や友人に対して抱いている「•••らしさ」について具体的に考えて欲しいのです。
よく言われる「誰々さんらしいね」の「らしい」は、何から感じ取るのでしょう。
性格、しぐさ、表情、あるいは?
内面的な本質、みたいなものが写真で撮ることが出来れば、それに勝るものはありません。
しかし、写真で人の内面を撮ることはできません。
そんなものを狙っても写りませんよ。
常々その人の特徴だと思っている要素が、写真を撮ってみると案外曖昧ななことに気付かされます。
学生に「自分が一等気に入っていて、普段よく着る服を着てきなさい」と伝えます。
次に、二人ペアーになって、それぞれ着ている服をチェンジするのです。
A君はB君の服を、B君はA君の服を着てもらいます。
すると、今までA君らしいと思い込んでいた個性が見事に希薄になって、そこに存在しているのはA君でもない、かといってもちろんB君でもない、なんとも見慣れない不思議な人物になってしまいます。
たった服を換えただけで、今までその人らしいと思っていた個性がたちどころに消えてしまうのです。
自分が「その人らしい」と思っていた個性や特徴は、案外希薄な根拠で、人物そのものでなく、身につけているファッションや化粧などの外見的な趣味に由来していることが多いのです。
「らしさ」が難しいものでなく、曖昧で、希薄で、頼りないものであることが実感出来れば、人物写真にアプローチすることも気楽に向かい合えるのではないでしょうか。
学生のうちの誰かが、この「らしさ」の曖昧さに興味をもって「見立て」や「やつし」や、さらに「変化(へんげ)」にまで興味の対象を拡げ、「しぐさ」にたどり着いてくれれば、写真授業のやり甲斐があるというものです。