写真を考える

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ヨーロッパ滞在も残りわずかになってきました。
フランス、ドイツ、イギリスを訪ねて、途中、番外でウクライナ訪問もありました。
今回の滞在の目的は、「写真」が生まれた場所へ行き、その風土の空気を直接吸って、そこから感じ取ったものをこれからの表現や教育に反映させてみたいと思ったのです。
少しばかり滞在しても、その土地の空気を吸ったからって何も得られるものはないよ、と思う気持ちもありましたが、「経験しなければ何も始まらない」をモットーにここまで生きてきましたので、今回も周囲の迷惑や無理を押して実行しました。
現在は特に情報が発達して、実際にその土地

まで出かけなくても、それどころか地元の人以上にその土地の知識や情報に詳しい人もいます。書物やネットで得たものは自分ではない誰かの意見や感想です。書かれた人の眼鏡を透して見た風景です。
僕は自分の目で見たい。
何も感じなくても、言葉に出来なくても構わない。言葉に置き換えれば置き換えるほど、感じたそのものから遠ざかっていくものですよ。
どれほど言葉を使う表現に巧みな人でも、書き終わった後に必ず口惜しい気持ちが残るはずです。上手くいけばいくほど、どこか核心から外れてしまうのが、言葉に限らずあらゆる表現の宿命だと思っています。


今回、3ヶ月間という時間を使って言葉もろくに通じない土地へ来て、いったい何を得たのだろう、と考えます。
何を得るどころか、毎日、必要最小限の家具しか置いてない狭いアパートの一室に帰って来るたびに、自然に、「僕はいったいここで何をしてるのだろう」という思いにとらわれるのです。

こうしている間も、僕の可愛い大学の教え子からメールが入ってきます。
卒業制作のアドバイスを求める内容がほとんどですが、ちょっとした意見や感想を書いた後によく「ベストを尽くしなさい」と結びます。
しかし、「ベストを尽くせ」っていったいどこら辺までやったらベストを尽くしたことになるのだろう。
学生に言ってるくせに自分はベストを尽くしてるのだろうか?
今ここでこうしていることは、今自分がやれるベストだろうか。
難しい問題だね。

ベストかどうかは、現時点では自分も含めて誰にも判断できないはずだ。
言いたいことを、もう少し親切に伝えることは出来ないのかと思う。
ベストの意味を切り開いて、わかりやすく正確に言えないのかと思う。

僕が言いたいことは、最善を尽くせということではないんです。
最善の方法なんて誰にもわからないし、方法を考えついたからってだからどうなのよってものです。
言いたいことは多分、こういうことです。

「諦めるな」

「ベストを尽くしなさい」の言葉を使って言いたいことは「粘り強く」なのです。
今の僕にとっても必要な思いです。


このところ毎日カメラを持って街へ出て行きます。
2週間ほど前からスナップ写真を撮ってみたくなったのです。
2ヶ月も滞在してからやっとカメラを持つようになったなんて、プロの写真家かね、とも思うのですが、仕方ありません。写真を撮る気が起きないのです。何故起きないのかというと、何を見てもすでに知ってる気がするのです。何処へ行ってもすでに来たことがある気がしてしまうのです。初めて見た風景でなくても別に構わないのですが、心が動くまでに至らない。この症状は、僕が長く生きてきたからではないですね。
若い人でも今の僕と似た症状で心を痛めているのを度々感じます。
心まで届かずに物事が表面を過ぎ去って行く。
それもものすごいスピードで過去になってしまいます。

僕が目にした光景にシャッターを落として、ひとまずいったん暗闇に閉じ込めよう。
閉じ込めた光景が暗闇の中でどんな風に再生されるのか、僕自身が産みの親になってみよう。

写した瞬間に再生されるデジタルは、写真の行く末をどのように変えてしまうのだろう。
写真の行く着く場所が見えるまで、僕の人生があるといいのだが。この変化のスピードなら可能だろう。
写真がどうなってしまうのか最後の最後まで見てみたい。
 

 

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