浮いたか瓢箪

今年も「おわら風の盆」が終わってしまいました。

久しぶりに「おわら」を体験したいなあ、と思っていたのですが、9/1~3日はやっぱり仕事が入ってしまい、八尾町には行かれませんでした。僕の仕事はレギュラーで続いている撮影が多く、希望どうりに休みが取れません。久しぶりに八尾の方達にお会いしたいと思っていたのですが、駄目でした。

おわら風の盆」を撮影したのは2009年でしたから、もう3年前になるのですね。僕が作った動画作品の中ではとても好きな映像です。照明をせずに、その場の地明かりで撮影したいと思っていたので、フィルムの感度では光量不足になり実現不可能でした。

デジタルカメラの出現がなければ撮れない映像だったのです。
そんな時に、新発売になるデジタル一眼レフカメラ「EOS 7D」を使って作品を作る仕事がきたので、これはもう「おわら」だ、とキヤノンに話したのです。

今年も八尾に行かれませんでしたが、「おわら節」はいつも聴いています。2009年に撮影した際、さまざまな「おわら節」を収録したのですが、その録音テープをまとめて僕の車のディスクで聴いています。嘘ではなく毎日聴いています。ほとんど毎日のように車を運転していますから。車に乗ればスピーカーから「おわら」が流れます。何故かというと、僕の車のディスクは「おわら」しか入っていないのです。

「おわら節」の歌詞は3000以上あるといわれていますから、もちろんすべての歌詞を覚えたわけではありませんが、かなりの「おわら」はソラでも歌えます。車を運転しながら大声出して「おわら節」をがなってるのだから、僕は変な奴の典型かもしれませんね。

歌詞も興味深いものがたくさんあります。が、僕にとって謎なのは、囃子詞(はやしことば)です。
以前にも書きましたが、中でも最後に囃すことばです。

「浮いたか瓢箪 かるそに流るる 行き先ゃ知らねど あの身になりたや」

この囃子が唄われたらそれが最後の合図です。これで終わりです。
この囃子ことばは、いつ頃から唄われているのでしょう。
この詞が語る意味を知りたいですね。

そもそも瓢箪は中身がない空洞、空ろです。「浮いたか」ということは、瓢箪を投げたのでしょうか、あるいは、浮いている瓢箪を見つけたのでしょうか。「かるそに流るる」ですから、浮いた場所は海よりも川でしょう。「行き先ゃ知らねど あの身になりたや」というのですから、現状に満足していない状況が想像できます。歌って踊り、みんなで楽しんでいる現在の「おわら」にあまりふさわしい歌詞とも思えない。この囃子言葉には隠れた意味があるのではないでしょうか。

新しい世界に身を投げ出す前に、いったん空ろな空間に籠る時間が必要です。瓢箪はそのような意味に汲み取れます。「行き先ゃ知らねど あの身になりたや」なんて、新しい自分に生まれ変わる願望と勇気が感じられてワクワクします。
「おわら」の最後の最後に「浮いたか瓢箪」を唄うというのは、この歌詞を作った人のセンスに共感すると同時に、「いやあ、おわらは洒落てるなあ」と感心していました。

八尾の町は、かつて繭、生糸産業で栄えた町です。隣の長野県にはたくさんの製糸工場があり、明治期には八尾から多くの女工さん達が働きに出たそうです。もしかしたら、そのあたりと関係あるのでしょうか。

この「おわら」も、生まれ変わるための瓢箪伝説の一つだと解釈すると、また興味が広がります。

 

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