写真と珈琲のバラード(39)
雑誌『シアターガイド』に毎月連載してる「劇顔」、2017年掲載の写真をギャラリーで展示する。
役者の顔を撮るっていうのは、初めて訪れた街で道に迷った時の感覚に似ていると思う。どの方向へ行ったらいいのか、途方にくれて立ち止まる。行き先を決めるためには、きっかけを掴む手がかりが欲しい。例えそれが根拠のない直感であったとしても。
この撮影に関して言えば、最初の手がかりは役者の素顔は見たくない、と思ったこと。そうかといって、演じてる顔をそのまま写真で撮ってもちっとも面白くない。
ならどうする?
演じてる顔と素に戻る顔の狭間はないのだろうか?
そう思いついて、劇の幕が上がる直前か、あるいは幕が降りた直後の瞬間を思いついた。もちろん舞台に対する直前直後の心のありようは役者によって違うだろうが、異なる在り方に、その都度私が反応出来ればなんとかなる。そう思って始めた撮影だった。
顔を撮るって、写真家にとって永遠の課題だね。なんといっても被写体が魅力的に見えなければ話にならない。撮る甲斐がないじゃないか。実物よりも魅力的じゃなければね。でも、その人の魅力って一口に言うけど、いったいどんな瞬間がその人の魅力なの?その人らしさが強調された瞬間?他人が思っているその人らしさなんて、大抵は本物じゃないよ。それに、被写体になる役者と私は撮影の現場で顔を合わすのが初めて、がほとんどの場合だよ。
相手は役者だから、自分はこの顔、この表情がカッコイイと思い込んでる人も中にはいる。自分がいいと思い込んでる表情ほどつまらないものはない。生気が消えてしまうからだよ。反応を期待してる表情が写った顔ほどつまらない写真はないよ。
私が写真に惹かれる理由の一つは時代が写るってこと。顔を撮る、ポートレートだけでも時代が写るんだから写真は面白い。化粧の仕方や髪型、衣装の流行はもちろんのことだけど、それよりも写真家が何を見ようとしてるか、は時代によっても推移していく。戦争の真っ只中のように、時代の要請や必然によってこんな顔が求められている、はわかりやすい例だけど。理由があってその期待どおりに写った写真を見るのも、70年間生きてきた私は飽き飽きしてる。
幕が上がる直前、降りた直後、当然ながら時間にして数分しかない間に何が見えるのか。何が生まれるのか。
撮影場所は、なるべく舞台に近い楽屋近くの空いている場所にしよう。人が数人入ったらいっぱいになってしまう狭い空間に8インチ×10インチのカメラディアドルフを立てる。そんな大きなフィルムカメラを使うのは、被写体の気持ちに反応し変化した微かな筋肉の動きを見逃さないためだ。
私が撮りたいのは、決定的瞬間と評されるような象徴的な「あらわれ」ではないんだ。何もしない、何も表現しない、むしろ無表情に近い顔を見たいのだ。一瞬後には泣きだしそうな、或いは笑い出しそうな、どちらとも言えない、何顔(なにがお)と言葉に言いにくい顔を撮ろうとしてる。見た人によって感想はそれぞれ異なる顔を撮っているんだ。魅力って決められたものではなく、人が自分で決めていくものだと思う。
時代はここまで来ているんだから。そう思いながら撮り続けている。