写真と珈琲のバラード(33)

昨日、27歳の私の写真を見た。27歳の私がそこにいる。27歳の私は70歳の私を見返している。27歳の魂が写っているなら、写真の方が本物で70歳の私はなんだ?
27歳のまま立っている私と、老い続ける進行形で座る私。他者として出現してるのは27歳の私か70歳の私かどちらだ?

全てのものは徹底的に移ろう、何ひとつとどまってはいない。それが私の主義だ。

私にもいつの日か、移ろっていくものに対して感謝の気持ちが持てるようになるのだろうか。

写された写真を見て、魂を想像出来ないなんて愚かで野蛮な感受性だ。

生き生きした様子が写っている写真を見ても、私は生き生きしない。被写体が生き生きした様子(感激している表情や身体から発している溌剌とした仕草)が、その後に来る貴い哀しみを含んだ孤独を同時に想起するから。

欠損したことによって見えてくる細部。
欠けていることによって呼び覚まされた知覚(一種の不気味さ)は、視覚に伝達されてより細部に注目し、挙句は失われてしまってそこにない部位をイメージする。


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