菊ひとり、菊ふたり。

ホントにホントに、時は過ぎ去るのが速い。
あらためて思います。

B

木彫家瀧本光國さんとの二人展も、10/17日に始まり、20日にギャラリートークも終え、29日に無事終了しました。来廊された多くの方に心からお礼を申し上げます。ギャラリートークは、立ち見が出るほど盛況でした。木彫家との二人展は今までにない初めての試みでしたが、僕には面白い経験でした。
今回の展示に関して、印象深いことがいくつかありましたが、極めつけは、神奈川新聞の湘南版に載った記事でした。
「現代美術に新風を 鎌倉 木彫家と写真家二人展」
と題した文章です。

A

とても好意的に取り上げていただいた記事で、ありがたかったのですが、文中、こんな記述がありました。
「・・・瀧本さんの大型の木彫と、その近くに飾られた白と黒のコントラストで表現された十文字さんのモップの写真は、・・・」
記者がモップと思った作品は、実は菊の花なんです。
今回のDMに使った写真です。
何人かの方から「ハタキ?モップ?ホーキ?」と尋ねられたので、この記事を書いた記者が悪いわけではありません。何を写したのか、すぐには解りにくい写真なのでしょう。


花は、盛りの間は自力で咲いていますが、時が経って枯れかかると、環境に適合した形や姿に変貌していきます。その途中のどの段階も美しいと思っています。
この記者がモップに見えた写真は「菊ふたり」と題した作品で、撮影している間は僕の目には男と女に見えました。とても色っぽい姿で、ピッタリ寄り添って咲いていました。そしてそのまま枯れ始め、その間も二輪の菊の花はずっと一緒でした。撮影したあとで二つの花を引き離すと、片方の花に今まで寄り添っていた痕跡が付いていました。
菊は僕の写真の被写体として、大事な花です。「菊ひとり」という作品もあります。この作品は僕には「女」に見えました。気品があって芯の強い女です。辛いことがあっても決して挫けない、まっすぐ前を向いています。
「菊ひとり」も「菊ふたり」も、僕には大切な作品です。

菊の写真がモップに見えても、別に構いません。人はそれぞれ感じ方が違いますから。僕が思う大事なことは、何に見えるかではないのです。初めはモップに見えたとしても、少しだけ注意深く見つめれば、モップにしてはおかしいと思うはずです。だってモップではありませんから。

もしかしたら、僕が注目して写真に撮らなければ、「菊ふたり」は、モップに間違われて新聞に発表されることもなく、花として命を終えたかもしれませんね。どちらにしても「菊」にしてみたら、どうでもいいことなのでしょう。

写真を撮る、ということは、現実に存在してるものを写すわけですから、僕の思いとは無関係に存在してるのです。だから写真は面白い。

「菊ひとり」も「菊ふたり」も、もうこの世のどこにも存在していません。僕の写真の中だけにいます。

 

 

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