母の一周忌に思ったこと。
今日、7/12日は、母の一周忌です。
月並みな言い方ですが、時が過ぎて行くスピードが速い。本当にあっという間に1年が過ぎました。亡くなってからまだ数ヶ月しか経っていない気がします。しかしその一方で、何だかずいぶん昔のような気もします。
母と息子の関係というのは、母と娘とは違う独特なものがあるように思います。父と息子とも、父と娘とももちろん違います。僕には娘がいるので、父親にはなりましたが、母を想う時は息子のままです。
人はみなそれぞれ事情を抱えているので、似たような境遇であっても同じ育ち方にはなりません。僕自身、二人の姉と弟が一人います。でも、姉や弟とは全く違う育ち方をしました。
僕は12歳の時に母と別れました。両親は離婚し、僕だけが父の元に残されたからです。その時の母の気持ちは今では想像するだけです。母と息子の関係は、存在している数だけ違った関係になるのでしょうが、僕は自分が子供の時から母が可哀想でなりませんでした。物心ついた10歳ぐらいから母のことが不憫で仕方ありませんでした。子供心にも、母が幸せな人生を歩んでるとは思えなかったのです。夫婦には他の人にはわからない複雑な事情があると思いますが、それでもやはり息子は母の味方です。少しでも母が楽になればいいと思って、僕は10歳から働いていました。働くといってもたかがしれてますが、手にした収入の中から10円だけ自分が取って、残りを母に渡しました。10円ずつ貯金して、野球のグローブを買いたかったのです。僕がお金を渡した時に母は泣いていました。
僕が13歳の正月、東京に大雪が降りました。父の目を盗んで母に会いに行きました。母は僕以外の子供を連れて母の兄、僕からいえば叔父の家にしばらく身を寄せていました。叔父の家があった笹塚から渋谷までバスで帰ったのですが、途中僕だけ一人間違えて違う停留所で降りてしまったのです。今思えば、なんてことはないことかもしれませんが、昭和30年代の初めですから、東京は子供にとって怖いところだったのです。母と別れてはいけないと思って、走ってバスの後を追ったのです。雪に足をとられて思うように走れず、履いていた長靴を脱いで裸足でバスの後を追いました。後部座席のガラスに母がへばりついて何か叫んでいました。次の停留所で降りたら迎えにいくから、そこで待ってろ、と言っていたらしい。後で聞いた時も、母は泣いていました。
僕が16歳の時、母が大怪我をしたらしいから早く行ってあげなさい、と学校の先生から言われた。母は当時、横浜駅西口にあった商店で麻袋の裁縫をしていた。驚いて指定された病院に駆けつけると、片足を白い包帯でグルグル巻にされた状態でベッドに横たわっていました。僕の顔を見るなり泣きべそ顔で「ごめんね」と言った。
母は98歳で亡くなりましたが、どんな人生だったのでしょう。一緒に暮らしていた期間が短くて、大事なことは何も聞けなかった気がします。
思い出す母の顔は、泣いている顔です。