「浮いたか瓢箪」
鎌倉市倫理法人会主催の「イブニングセミナー」が無事終了。
ギャラリーの定員(といっても、こちらが用意できる椅子の数、ということですが)30人のところ、40名以上の方が来られました。
嬉しいです。
2009年に作った「おわら風の盆」の映像を、久しぶりに観ました。
左右5、5Mのスクリーンに映し出される映像は迫力ありました。
CANON 7Dのカメラ、そしてブルーレイの画像はさすがです。
今回はディレクターズカット版をご覧いただいたのですが、映像を流す前に、「おわら」について話をしました。
この作品を編集する際に、僕なりのちょっとした想いを込めたのですが、その想いの中味を少しだけ話しました。
それはタイトルが出る前の、導入部分です。
現在ある「おわら」は、「正調おわら」を基本に、「五文字冠り」「字余り」など、さまざまな歌い方や歌詞があります。一般公募した時期もあったので、実際には数えきれないほど歌詞があるのかもしれませんね。しかし、どの歌詞で歌おうと、最後の最後に囃す文句は「浮いたか瓢箪 かるそにながるる 行き先ァ知らねど あの身になりたや」で終わります。
この「浮いたか瓢箪」に注目しました。
瓢箪の中味は空洞です。うつろですね。自分の願いをうつろな瓢箪に込めて、いったん籠らせ、そして新しく再生させる。この世ならぬ魂魄との交流に、昔から瓢箪が使われます。
「おわら」は風の「盆」です。浮いた瓢箪は「行き先ァ知らねど」とありますが、瓢箪の行き先はあの世でしょう。「あの身になりたや」なら、その行き先は極楽浄土のようなところです。この3日間の「盆」の時期だけなら可能な八尾の人たちの願いだったのではないでしょうか。いつ頃から、最後の長囃子に「浮いたか瓢箪」の詩を歌うようになったのかわかりませんが、八尾の人たちの「おわら」に対する深い想いが想像されます。
「煙」「坂道」「風」「井田川」そして「橋」を渡って八尾の街に至る。
タイトルが出る前の始まりは、このような映像カットを編集でつなごうと決めました。
いつ観ても何回観ても、「おわら風の盆」は心に届くものがあります。
「おわら」を大切に守り伝えてきた人たちの想いが伝わるからだと思います。