「升たか」さんのコーヒーカップ(1)
昨年の秋頃から、ずっと考えていることがありました。
それは、コーヒーカップです。
自分のコーヒーの味がはっきりと決まったので、次はカップをどうするか、思案していました。
なんとなく決めていたことは、なんにでも合うような無難なものは止めようと思っていました。
言ってみれば、アースカラーのような、どの空間に置いても似合ってしまう器は、おもしろくありません。
ただの白いカップもつまらない。
コーヒーは嗜好品ですから無難なもので終わらせたくない。「好き嫌い」だけで決められるものは、思いきって行くところまで行ってみたい、というのが僕らしい、と思っています。
それで、「絵付け」のカップを探していたのですが、なかなか気に入ったものが見つかりませんでした。
「へたうま」は嫌いです。
しっかりした技術、センスに裏打ちされた本当の「絵付け」が出来る陶芸家を探していました。
もっとも、技術があるだけでも駄目です。
冒険してなければ、新しく作る甲斐がありません。
それに、何よりも僕が焙煎して抽出したコーヒーの味、香りにぴったりの世界をイメージできる作家でなければなりません。
いったい、そんな「絵」が描ける人は誰だろう、と日夜考えていたのです。
先日、突然、ある人の姿が浮かんできました。
「升たか」さんです。
僕は今から5年ほど前に、雑誌『陶磁郎』から頼まれて、陶芸家の写真を撮りました。
その折に撮影した作家が「升たか」さんだったのです。
編集者から「升たか」さんの情報を得るまで、僕は升さんのことを知らなかったのです。
升さんのプロフィールを読んでいるうちに、20代で寺山修司さんの「天井桟敷」に参加したことを知り、いっぺんに興味を持ちました。
かつて「天井桟敷」で芝居をしていた陶芸家がいたなんて、これはぜひお目にかかっていろいろ話してみたいと楽しみな思いで撮影に臨みました。
仕事場は墨田区の古い民家を改造した空間でした。たしか、前日まで入院されていたにもかかわらず、撮影ということで、無理を押して出て来られたようでした。
仕事場といっても表の通りから室内がまるまる見える、なんとも落ち着かない空間でしたが、「升たか」さんの風貌が、これまた下町の民家にぴったりで、感心しながらファインダーの中の表情を追っていたのを思い出します。
器に描いてある絵付けが、実に素晴らしい。
面相筆の細かい先端を使って繊細な絵を描かれる。
描かれているモチーフはひとくちに言えばアジア的世界なのですが、そのアジアンテイストも、升さん独特の世界に昇華していて、いい意味で地域性を超えているのです。ごちゃごちゃなのに可愛い。なかなか言葉では言い切れない複雑な深みを感じました。
「これだけの絵が描ける陶芸家は、そうはいないぞ」というのが、その時の僕の感想でした。
その「升たか」さんを突然思い出したのです。
「升たか」さんが絵付けしたカップは、僕のコーヒー世界にぴったりだ、と勝手に思い込んだのです。
さあ、それからはもう他のカップではどうにもつまらない。
なんとか「升たか」さんに頼んで、コーヒーカップを焼いてもらいたい、そしてついに決心して、昨年の12月に連絡したのです。
声を聞いたのは5年ぶりでした。