中尊寺釈迦堂(1)
このところ仕事のスケジュールが厳しくて、PCの前に落ち着いて座ることが出来ませんでした。
長い間ブログの更新をサボったので、もしかしたら、病気でも、と思った方がいらっしゃるかもしれません。
もし、そうであったらすみません。体調はすこぶる健康です。ただ、連日撮影で、書き込みができませんでした。
撮影の仕事が一つ入ると、「メインスタッフ打ち合わせ」「オールスタッフ打ち合わせ」「建て込み、アングルチェック」「本番撮影」「テレシネ」と、最低でも5日は必要です。全然別々の撮影が5〜6本、たて続けに入ると、ほとんど早朝から夜中まで、ぶっとうしで仕事です。それに、原稿書き、インタビュー、週1回大学授業もあったり、毎日の日課として早朝か帰宅後には、必ずコーヒーの焙煎をやります。
そんなこんなであっという間に時間が過ぎ去ってしまいます。
今回の話は、少し前のことになりますが、11月14日のことを思い出して書いてみます。
この日は岩手県平泉にある中尊寺に行きました。
「金色堂」で有名な中尊寺ですが、中尊寺塔頭の一つに「釈尊院」があります。
その「釈尊院」住職である菅野成寛師から、当日、釈迦堂の開眼、落慶法要が執り行われるとの連絡があったのです。
釈尊寺の住職成寛師とは古い付き合いです。
確か、1986年か87年だったと思いますが、もうちょっと前だったかもしれません。
お付き合いをさせていただいてから、かれこれ25年近くなります。
かつて、僕は作品集『黄金風天人』のために、「金色堂」の撮影依頼書を持って中尊寺を訪ねたことがありました。その時点ではまだ出版社も決まっていず、まったくの個人の資格で訪問したのです。当然のことながら、門前払いでした。当たり前ですよね。日本国第一級の国宝「金色堂」を、出版社の保証もなく撮影させてほしいと直接頼むなどとは、世間知らずもほどがある。いや、一応、一関のジャズ喫茶「ベーシー」のマスターに中尊寺執事長を紹介してもらったのですが、効果はありませんでした。
撮影を断られて月見坂を一人とぼとぼ歩いていると、後ろから声をかけられました。
その時、声をかけてきたのが菅野成寛さんだったのです。
僕が撮影のお願いを説明した中で、黄金を富の象徴としてでなく、「光」としてとらえたい、という話に非常に興味を持った、というのです。もともと「金色堂」は、別名「ひかり堂」とも呼ばれていて、墓所でありながら、墓の役割を超越した特別な空間である。黄金を光と解釈するさまざまな理由について、もっと僕の話を聞きたい、と、こう申されたのです。
菅野成寛さんは、現在、中世史研究の第一人者です。特に、奥州藤原氏三代、及び、中尊寺に関係した研究では第一級の論文を発表しています。平泉の地にどっしり腰を落ち着けて、緻密に文献をあたり、あるいは発掘にも立ち会いながら、日本国の歴史の中で、ともすると闇に埋もれがちな京都と東北の関係を明らかにしているのです。
1986年に月見坂で出会った頃、もうすでに成寛さんは中尊寺きっての論客だったのです。
月見坂での立ち話から始まって、その日は夜中まで話し込みました。そして、お互いに記憶が飛ぶほどしたたかに飲んだのです。
成寛さんはめっぽう酒に強く、また酔うほど説法鋭く切り込んでくるのです。
その時以来、どういうわけか、お互いすっかり気が合ってしまったのです。
ごぶさたしています。
ブログ拝読しています。金色堂に昨年初めて行きました。話の続きが楽しみです。
お会いしたい限りです。
こちらこそご無沙汰です。
そうですか、昨年金色堂に行かれましたか。当時、勇壮を誇った鎌倉の軍勢も、金色堂だけには火をかけることが出来なかったのです。今では、ガラス張りの中で、しっかり管理されているので、当時の様子を思い描くことは困難ですが、それでも、ただならぬ気配が流れているのを感じます。
また、「カヤ」のメンバーに集合かけてみんなに会いたいなあ。