上七軒の名妓
京都の花街(かがい)が五カ所あることを最近知ったくらいなので、今まで京都のお茶屋で遊んだ経験がなかった。『京の花街』(日本評論社)という本を著した太田達さんと知り合いになった縁で、せっかくだから、やってみたいことがあると、思い切って太田さんに話してみた。それは、京都で一番古い花街で一番年長の芸妓さんに遊ばれてみたい、と以前から思っていたのだ。その念願が太田さんの肝いりで、ついに実現することになった。
祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒と五カ所ある花街の中で、最も歴史が古いのは上七軒だ。その成立は『京の花街』によると室町時代にまでさかのぼる。
北野天満宮の社殿が火事で焼けた際に、社殿を復興造営した用材を使って、門前の松林に七軒の茶店を建てたのが「上七軒」の地名の由来だ。その後、豊臣秀吉が北野天満宮の松原で、例の「北野大茶の湯」を催し、七軒茶屋を休憩所にした。それをきっかけにして茶屋株を許されたのがお茶屋の始まりと伝えられている。「大茶の湯」の後で、秀吉や利休もひととき上七軒の茶屋で遊んだのだ。そんな話を聞くと、なんとなく秀吉や利休が身近に感じられる。
今回、僕は十軒ある上七軒のお茶屋の中で「藤幾」(ふじいく)というお茶屋さんの座敷に上がった。
さて、問題は芸妓さんだ。
待つことしばし、障子を開けて不意に現れたのは、歳の頃なら・・・まったくわからない。黒髪のきれいな腰の決まったお姉さんだった。
独特のイントネーションで、「カツキヨどす」と挨拶された。
勝喜代さんは上七軒を代表する芸妓さんで、三味線はもちろん、踊りの名手で、この世界で知らぬ人はいない大ベテラン。水上勉の小説『上七軒』に勝千代の名で登場する名妓だ。
でも、こうして勝喜代さんについての話は、今だから出来ることで、お会いした当日はまったく情報がなかった。初対面もいいとこ、だって、どんな芸妓さんが来るのかすら知らされていなかったのだ。「最も年長の芸妓さんに遊ばれてみたい」という僕の願いを聞いた太田さんは、すぐに勝喜代さんを思い浮かべたらしいが、まず実際にお会いしてからがいい、ということですべてのことを伏せていたのだ。
勝喜代さんは薄い色の着物をすらりと着た、とてもきれいな芸妓さんだ。座敷に入ってからしばらく御簾の側に立ってジィーッと僕の眼をみていた。
後で「藤幾」のおかあさんに聞いたところによると、勝喜代さんも僕のことはまったく知らないから心配だったらしい。「ねえ、今晩のお客さんはどんな人?」としきりに尋ねていたという。今時、若い舞妓や芸妓と一緒ならいざしらず、八十を超えた自分だけを呼ぶなんて、どんな趣味の奴だい、と訝しんでいたのだろう。
その夜はとても楽しい時間だった。僕を交えて五人の客は勝喜代さんの話術と間(ま)に魅了された。ひとしきり話した後、七十歳の地方さんも入って、三味線と踊りを満喫した。考えてみたら、すごい年齢層の高いお座敷だったけど、それだけに、若い芸妓さんでは味わうことが出来ないさまざまなことを見せてもらった。「もてなし」の典型がここにある。予想どうり、伝統的なお茶屋遊びは一つの日本の文化だと思う。そして、数年後にはもう味わうことは出来なくなってしまう危惧がある。
勝喜代さん、あなたの芸のすべてを見たいです。
毎回十文字さんのお話にはいろいろ感じるんですが,ホントに興味の幅が広い方だなあと思いました。