応挙寺の生きものたち

客殿十三室に描かれている生きもの

初めて「大乗寺」を訪れた時に感じたことがありました。

「大乗寺」は俗に「応挙寺」と呼ばれるように、何と言っても円山応挙が描いた障壁画で有名です。ところが「大乗寺」客殿十三室を巡って体感したのは、応挙とその一門の弟子十三人の共同制作で作られた空間だということでした。しかも、師匠と弟子の言葉から江戸時代職人の修行の厳しい上下関係を想像しがちだが、大乗寺客殿からは少し異なった雰囲気を感じ取りました。師匠と弟子でありながら、それぞれの作家としての個性を尊重する関係、すなわち理想的な西洋のサロンのような空気を感じたのです。客殿障壁画のどの部分を見ても、担当した絵師の生き生きした喜びを感じるのです。

客殿十三室に描かれているのは、人間よりも圧倒的に「生き物」の方が多い。応挙自らが描いた孔雀を初めとして、猿、鴛鴦、鴨、蝶、蛾、山雀、燕、牛、亀、犬、鯉、鮎、馬、鶴など、鳳凰まで数えると、18種類207個体描かれている。この生き生きと描かれた生き物をクローズアップすることで、今回の展示のテーマの一つである共同制作の喜びを伝えたいと思った。

令和三年ですから今から3年前に、ある古美術の市で円山応挙の日記が発見された(『応挙の日記』川崎博著、思文閣出版)。この日記に記述された日付は、天明八年〜寛政二年の3年間です。天明八年は「天明の大火」で洛中が火災のため燃えてしまった年ですから、日記は焼け出された直後から書き始めています。
この日記中にとても興味深いことが書かれてありました。応挙は天明八年の時点ですでに病気勝ちだったと思われるのです。病気、大病気、不快、大不快、発熱、臥、平臥、半臥、歯痛、肩痛、大痛、など頻繁に体調不良の様子が伺われます。応挙が没した晩年である寛政七年は眼も脚も弱っていたことが応挙の弟子の一人奥文鳴の著書でわかっていましたが、実は亡くなる8年前から病気勝だったと思われるのです。
ここからはわたしの想像ですが、天明の大火以後に描かれた「孔雀の間」「郭子儀の間」の障壁画は体調が悪い状態で完成したのですね。もしかしたらです、もしかしたら絵を描く時に弟子が応挙を支えていたかもしれません。あるいは大事な箇所以外の部分は弟子の手を借りたこともあり得ないでしょうか?そのことによって絵の価値が下がるわけではありません。つまり、そのことを想像させるくらい応挙は弟子たちに尊敬され、また慕われていたのではないか、と言いたいのです。

現在資生堂ギャラリーで展示している「空想の宙/静寂を叩く」作品は、個々の作品で表現した裏に、一門の弟子たちが共同制作したことによる眼に見えない喜びまで感じ取っていただけたら、私にとっても最高の喜びです。


 

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