円山応挙と弟子たち

近年は伊藤若冲、曽我蕭白など「奇想の画家」がもてはやされて、正確な写生の重要性を訴えた円山応挙はどちらかというと「つまらない」絵師のレッテルを貼られ勝ちだ。
極め付けは2005年に京都国立博物館で開催された曽我蕭白展のキャッチフレーズ「円山応挙が、なんぼのもんじゃ!」だろう。企画者の気持ちがストレートに表現されたコピーとも言えるけど。

応挙は1795年に没してるから、死後210年経ても尚、地元京都の国立博物館で「なんぼのもんじゃ!」と啖呵切られたのだから、当の応挙さんはどんな思いでいるのだろう、本望かもしれないね。

縁あって、俗に言われる「応挙寺」、兵庫県香住にある亀居山大乗寺の客殿十三室を撮影し、6月小学館より写真集『大乗寺十三室 十文字美信』を刊行した。
また、来たる8月27日より銀座資生堂ギャラリーで「空想の宙 静寂を叩く/大乗寺十三室 十文字美信」展を開催することになり、このようなことが重なってこの3年間はひたすら円山応挙とその一門の絵師たち13人が描いた障壁画と向きあってきた。

大乗寺客殿十三室ある中で応挙自身が描いた部屋は3室だ。はじめに納品した「山水の間」から「孔雀の間」の障壁画を仕上げるまで8年の時間を費やされた。
途中、京都市中に燃え広がった「天明の大火」があり、そのため応挙の画室も類焼に巻き込まれ、初めに描いた孔雀の襖絵は焼失してしまったのだ。現在の絵は再び描き直したものである。この年に応挙は亡くなってるのだから、最晩年の作品と言える。
応挙十哲の一人奥文鳴(おくぶんめい)が書き残した文によると、この頃の応挙は足も衰え、視力もかなり落ちていたという。

私自身がこの撮影を通して最も興味を抱いたのは、円山応挙という人間性だ。落款の文字からはよほど真面目な人と見える。弟子たちに愛されていたのだろう。弟子とはいえ、それぞれが際立った活躍をし、一人一人個性豊かな連中が応挙の呼びかけに応じて、大乗寺客殿という一つの空間を完成させるために結集した。現代の我々が想像する師弟関係の域を超えた、もっと自由で尚且つ強い絆があったのではないか、と想像してしまう。この絆はどこから生まれるのだろう。

奥文鳴の文を信ずるなら、応挙の視力は衰え死期も間近に迫っていた時期に、独力であれほど精密で美しい孔雀絵が描けただろうか?応挙のために出来ることはやり尽くそうと弟子たちの熱い想いが結集した結果ではないだろうか。

大乗寺十三室を撮影しながら応挙一門の人間関係に興味を持った。もしかしたら私が興味を持った実体は、応挙を取り巻く限られた世界だけでなく、京都画壇全体に、あるいはこの18世紀という時代の一般町衆が持つことが出来た特性と言えるのかも。


 

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