浅草寺「大絵馬」
先日、浅草寺へ行った。
江戸時代から明治にかけて浅草寺に寄進された「大絵馬」と「伝法院の庭」を拝観させていただくことになった。
普段は未公開ですが、僕のたっての願いを、平泉中尊寺釈尊院住職菅野成寛師のはからいで、見学が実現したのです。
度重なる災害を免れ、太平洋戦争による東京大空襲でも寺僧の尽力で疎開させていたために、現在でも250点の「大絵馬」が残っている。
僕はこの「大絵馬」の存在を知って以来、なんとか見ることは出来ないかと思っていました。
浅草寺といえば、江戸庶民の信仰のメッカ、と同時に、徳川将軍家の祈願寺でもあります。
江戸の人々の心意気やさまざまな美意識を知る上で、「大絵馬」は最高の美術品だと思っていました。
浅草寺の歴史は古く、『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)に、地元の漁師が漁網にかかった観音菩薩を引き上げ、草堂を作って深く帰依したのが始まりだと伝えられる。
628年といえば、今から約1390年ほど前ですが、その頃にはすでに観音信仰を受け入れる郷土の体制があったのですね。
645年に、聖観音像は永世秘仏として御厨子に祀ったので、御影を拝観することは出来ません。
九世紀の平安時代に慈覚大師が比叡山より来られて「前立尊」を謹刻された。
僕が寺伝を眺めていて興味深いのは、養和元年(1181)年に源頼朝が、鎌倉鶴岡八幡宮造営の際に浅草から宮大工を招いたとあることです。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にその記載がある。
鎌倉時代の浅草寺は、さぞかし立派な伽藍結構が揃っていたと想像できます。
頼朝の父である源義朝も浅草寺と関係が深く、観音堂が炎上した後、寺内の榎で観音像を刻み奉納した。
僕は鎌倉に住んでいるので、鎌倉と浅草の親密な関係がここにも発見できてたいへんおもしろい。
さて、「大絵馬」ですが、まず驚いたのはその大きさです。「大絵馬」と言われているのだから、大きいだろうと想像はしていましたが、中には畳3枚分ぐらいはあろうかと思います。しかもどれもが実に緻密に描かれていて、保存状態も優れています。数年前に描かれたのでは、と思われるくらいきれいなものもあります。
歌川国芳、歌川国輝、谷文晁、嵩溪、柴田是真などの作家名が確認でき、しかも肉筆ですから迫力が尋常ではありません。画題はさまざまで、「神馬」「伝説」「神話」「境内図」「力士」「歌舞伎役者」「競べもの」「細工合わせ」などなど。「油絵」や「書額」もあります。
サイズが大きいから細部がどうか、と懸念していましたが、人物の髪の毛の1本にいたるまで、入魂の筆跡を感じます。
目の当たりに眺めていると、「あいつがこの絵を奉納したのなら、俺も負けられねえ」と、さながら江戸っ子の気風を感じてワクワクします。作家名など入っていない作品もありますが、相当な絵師の手技になるもので、どの作品も負けず劣らずのレベルです。
この時代、日本の工芸としての技術は、最高水準を極めたので、絵馬を入れてる額縁も尋常ではありません。
今回拝観させていただいた「大絵馬」は50点ほど。まだ200点あまりあることになります。
正直、江戸の技術、感性に驚き、堪能しました。
小堀遠州作庭の伝法院の秘園については後日書きます。