性空上人の頭部
2005年12月、縁あって、姫路にある書写山圓教寺に行きました。
同寺を創建した
性空上人は延喜10年(910年)京都に生まれ、寛弘4年(1007年)播磨国弥勒寺(現在書写山圓教寺)で亡くなりました。
元山大師良源に師事し、日向国霧島山や筑前国脊振山で修行した後、書写山に入り、感ずるところがあって桜の生木に如意輪観音を彫ったと伝えられています。
生前から数々の霊験があり、39歳の時、法華経を暗誦していると突如として乙若二人の童子が出現したという。これら童子は不動毘沙門天の化身で、性空上人入寂まで上人の側で従ったといわれています。花山法皇、
後年、かの有名な一遍上人が圓教寺を訪れ、桜の樹に彫った六臂如意輪観音像を拝観したとも聞いています。
性空上人に関して、撮影当時は上記のような簡単な知識しかありませんでした。
2007年は性空上人没後1000年にあたります。それで2005年に木造坐像を撮影させていただいたのです。その撮影がきっかけで、秘仏如意輪観音像が安置されている厨子の扉を開けていただきました。本尊は秘仏中の秘仏です。前回開扉したのがいったいいつのことなのかわかりません。摩尼殿内陣奥深く800年間一度も開扉されることがなかった、とも伝えられます。
厨子の内扉のさらに奥の闇の中に如意輪観音像はありました。
少し離れたところから拝観したところ、像高1尺弱ぐらいの大きさに思いました。材質が桜材に見え全体に黒光りして、離れた場所からも着衣の截金文様が確認できました。
そうして無事に撮影させていただくことが出来たのですが、話はこれで終わりません。
大樹玄承執事長によると、僕が撮影したあとに奈良博物館でX線検査をした際、性空上人坐像の頭部に、御真骨が収められているのが判明したのです。
お骨が入っていたなんて、撮影中、僕はまったく気付きませんでした。
平安時代の木彫ですから、1000年近い時間の経過により、もうそれだけで、ただならぬ気配を感じます。写真家が「気配」なんていう曖昧な言葉を使ってるようでは困りますね。でも他に表現仕様がない存在感を感じました。何とかその時に感じた「気配」をあらためて確認したく、お寺にお願いして、再度拝観させていただくことになりました。
僕が「気配」としか表現できなかったものを、目に見える写真に移してみたいのです。
今は性空上人のことで頭がいっぱいです。