二人展の作品(4)
「時間や空間を切り捨てながら自分の感じた世界を表現するのは嫌だな」と思ったのが、僕の写真の始まりでした。
優れた写真と評価されているものは、僕の思いと逆で、余分だと思う空間は、なるべく明確に切り捨てて、決定的と思われる瞬間にシャッターを切る。写真家の個性が強烈に発揮されているものが良い、とされていました。土門拳さんの写真は、誰が何と言おうと土門さんの世界です。本人の言葉で言わせると「鬼が撮った」というような意味のことをおっしゃっていたと記憶しています。確かに作家の思想や好みや、強烈な個性は作品から感じ取れます。土門ファンとしては、文句ありません。僕も土門さんの生き方が好きです。
何もない真っ白なキャンバスに自分の感性の痕跡を落としていきながら成立していく表現分野であればそれもあると思います。そうでなければ成り立たないのでしょう。一筆一筆加わるたびに個性が発揮されていきます。ところが、写真はすでに写すべき被写体は目の前に存在しています。存在しているということは、すでに完璧な状態だと思ってしまいます。僕がなんて思おうと、僕の個性がどうであろうと、僕の存在とは無関係にそこに在りました。写真を撮るという思いでその場に関わろうとしているわけです。僕の勝手な都合で。その無関係に存在している世界に対して、時間や空間を切り取って、「作品」として発表することに、どことなく後ろめたいような感覚が芽生えてきました。「不遜な行為」という思いが近いでしょう。
でも、完璧に存在しているものに対する尊敬はありますから、その存在をそっくりそのまま写し取る写真という表現手段はとても興味深いものでした。
絵画や彫刻と大きく違うところは、テーマやモチーフなど、表現に関係するすべてが、もうすでにそこに存在しているのです。
写真を撮り始めようと思った20代初めの頃に考えたことを書いています。
僕が誕生して初めて撮影された写真は、僕が1歳の時です。その写真を見ると、どうやら写真館のような場所で撮られたみたいです。背景が何もない、紙バックのように見えます。撮影する目的が、僕の顔や佇まいを記録しておこうだろうから、それ以外は整理されたのでしょう。もし、その写真が僕の生まれた家の、僕が育った部屋で撮られたとしたら、今見ても、ああ、こんな家で生まれたんだ、襖や窓はこうだったんだ。あるいは、玩具が置いてあれば、父親が買ってきたのかな?それとも、手作りのオモチャだったかな、とか、想像を膨らませる手がかりになります。フレームで切り捨てられた空間に、イメージの大切な手がかりがあったかもしれません。
空間や時間を整理して、明確な決定を下さなければシャッターを切ることは出来ませんから、何処かで決断するのですが、僕が言っているフレームの外側を意識するかしないかで、写真の質はずいぶん変わってくると思います。