今朝のこと
母の初七日も終わり、今はあっという間に時が過ぎ去っていくのを感じています。
生前、それほど頻繁に母と会っていたわけではないのですが、いるといないとでは、心のありようが随分違います。やはり、心のどこかにポッカリ隙間が空きました。
今朝、僕が撮影した母の写真をあらためて見ました。
母が息をしている最後の顔、息を引き取った直後の顔、翌日の顔、納棺の際の顔、すべて撮影しました。
写真は不思議です。
まったくの無表情な顔から時間が経つにしたがい、少しずつ母が遠ざかっていくのがわかります。
生きている顔も死に顔も、どの顔も好きです。これが愛情なのでしょうね。
顔の表面からは、何もかもが消えて、本当の母だけになったとても可愛い顔でした。
カメラを構えている時は、不思議に思えるくらい肉親の情が湧きません。被写体をどう撮るか、ひかりはきれいか、ピントはどこに合わせるか、クローズアップはどのくらいにするか、などなど、ほとんど無意識で、ピントグラスに写っている映像に没入しているのでしょう。無理に言えば写真家としての本性だと思います。
ただ、ひとつだけ撮らないものがありました。撮らないというより、撮りたくなかったものです。
それは、焼かれた骨が火葬場の炉から引き出された時です。
小さな焼けただれた骨が、人が寝ている形になっていました。
母の骨だとわかっていても、僕と目の前にある人の形の骨とは、ものすごい距離を感じました。
撮る意欲が湧きませんでした。
ああ、母はこの世から消えた、という醒めた感覚だけがありました。
しかし、そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎ去り、普段の生活のあれやこれやが押し寄せてきます。
そして、気が付くと、いつもの生活ペースに戻っています。
朝起きると、カフェに行き、まずスピーカーのスイッチを入れ、CDをかけます。
毎朝、必ず同じ曲を聴きます。
ジャック・ルーシェの「プレイバッハ」です。
僕が10代の頃、モダンジャズをしきりに聴いていた時期がありました。
横浜野毛の「ちぐさ」というジャズ喫茶に毎日通っていたのですが、その「ちぐさ」のおやじさんが、開店の一番最初にかける曲がジャック・ルーシェの「プレイバッハ」でした。
何もかもが決まらない破れかぶれの時期に、薄暗いジャズ喫茶の小さな椅子に座って、僕はバッハを聴いていました。これがフランス風のしゃれたバッハかあ、と思いながら聴いていました。
18〜9歳の頃です。
コーヒーの豆をセッティングして、その日に飲むコーヒーを決めます。
この瞬間は幸せです。
ネルを乾燥機にかけ、何を飲もうか、思案します。
ちなみに、今朝は「マンデリン」と「コロンビア」にしました。
湯を沸かしている間、ジャック・ルーシェの繊細なピアノの音を聴いています。
しばらく前から、焙煎は理想の状態になりました。今はめちゃくちゃうまいです。
やわらかくて、繊細な香りが口いっぱいに広がり、チョコレートのような甘さも感じます。
この歳になるまで、本当のコーヒーの味や香りを知りませんでした。
コーヒーに関わってよかったです。
些細な喜びに浸っている時ほど、生きている幸せを実感します。