中尊寺釈迦堂(2)
11/14日の平泉は曇り空でしたが、陽気はそれほど寒くもなく、落慶法会が始まる頃には、時おり薄日も見えて、会はつつがなく進行しました。
現存する中尊寺釈迦堂は享保4年(1719)の建立で、300年に及ぶ経年のために、傷みが激しく、さらに,平安末期作といわれている本尊釈迦三尊像も同じように変化が目立った。修理をせねばならない状態であったという。
今回、法会参列のために中尊寺へ行って、僕は釈尊寺住職菅野成寛師の新たな面を知ることになった。
成寛師とのお付き合いは、かれこれ25年以上経過しますが、考えてみると、住職としての仕事ぶりはほとんど知りません。知っていることといえば、中世史研究の専門家であること、それに、大酒飲みであることぐらいです。
親しい友人であっても、その人が具体的にどんな日常を送っているか、案外知らないことってあるのではないでしょうか。たまにしか会わないのであればなおさらです。すべてを知らなくても、お互いに親しみを感じることはあるのです。肝心なことが解り合っていれば、それだけで深く付き合うことはできるのです。
釈迦堂改修にしても、御本尊修復にしても、実際にやることになったら、それは並大抵ではありません。
建立当時の状態は、いかようだったか、当時のやりかたで復元できるところは復元し、技術的に最新の技法を駆使したほうがよければ、その方法も採用しなければなりません。何から何まで、理想通りに出来ればそれにこしたことはありませんが、先立つものを考えればそうもいかないでしょう。計画から実行まで、一人の力では実現出来ない規模のものです。大勢の人の協力やボランティアがなければ、とても完成まで到達しません。それはもちろんそうなのですが、しかし、中心になる人物がいなければ協力しようにも出来ないことも事実です。その中心になる人物に、いわゆる人間としての「徳」がなければ、さまざまな分野の専門家が集まってくることもないでしょう。釈迦堂建立以来300年の歴史で、修復の時期に釈尊院住職、釈迦堂別当だったことも、一つの「縁」でもありましょう。成寛師にしてみれば、やらずにはいられないことであるかもしれませんが、個人でやるとなれば、これは一世一代の出来事です。いやはや想像以上に大変だったでしょう。
式次第が無事終了し、いったんお開きになったあとで、成寛師を中心に親しい人々が集まって平泉駅前の寿司屋「芽ぶき」でお疲れ会をやることになった。大学教授、建築家、郷土史家、修復専門家、寺の住職など、成寛師を囲んで盛り上がった。心の中では皆一様に成寛師の成し遂げた行為の大きさに拍手を送っていた。
ひとしきり盛り上がった頃に、僕は
「成寛さん!成寛さん!」
と大きな声で呼んだ。
「つい昨日まで、あんたはただの飲んだくれ坊主かと思っていたよ」と皆に聞こえるように叫んだ。
呼ばれた成寛師は酒が入った盃を持ち上げながら、「十文字さん、そいつは違う、いつだって私はただの飲んだくれだよ」と僕を見ながら言った。
すでに目がすわっている。
「そうだそうだ、成寛はただの飲んだくれだあ」
いくつもの大きな声が聞こえた。
盃を傾けている成寛師の横顔を眺めながら、僕は嬉しくて仕方なかった。