二人展の作品(3)

今回の作品展に出品する写真のプリントがやっと終わりました。
昨日、フレームマンさんに額装をお願いして準備終了。何とか間に合いました。

写真のプリントは、その1点のネガから焼く回数を重ねれば重ねるほど気に入った調子に近づきます。いつもこう考えてしまいます。
「次に焼く写真の方がうまくいく」
プリントは打ち切るタイミングが難しい。

写真には、いわゆる「ヘタウマ」は、ありません。
偶然いい写真が撮れた、という時はありますが、それは偶然ですから意図して狙ったわけではありませんし、その場合のいい写真は、シャッターチャンスがグッドタイミングだった、ということが多いのでしょう。決定的瞬間というやつです。
この決定的瞬間も写真にとっていいとばかりは限りません。
決定的であればあるほど、その写真に写っているものは、一つの世界ではないでしょうか。さまざまなものを切り捨てて、その写真で表現されているものは純化された、象徴的な世界になっていきます。
写真はそこに在るものを撮ることが基本だと思っています。すると、僕がカメラのシャッターを切る以前から、被写体はそこに存在していました。写真を撮りたい衝動に動かされた時には、被写体はそこに在ったのです。何度も同じことをいうようですが、僕が考える写真にとって、撮る以前から被写体がそこに存在していることはとても重要なことなのです。僕が関わる以前からそこに在ったものを、写真を撮る、という理由で足したり引いたりしていくことにいつも抵抗を感じます。何を足したり引いたりしてるのか、というと、時間と空間です。具体的には、シャッタースピードを決め、アングルやフレーミングを決めることです。
そこに抵抗を感じてたら写真は撮れないよ、と思われるでしょうが、実はそうなんです。写真は撮れないのです。

「写真なんて撮れないよな」から僕の写真は出発しました。
フレームで切り捨ててしまった空間は、本当に必要ないのでしょうか。
どうして?邪魔だから?
何故邪魔だと思うのでしょう。
決定的瞬間の前後の時間は、写真にとって本当に必要ないのだろうか?
決定的であることによって物事が明確になります。ただし、明らかにするためには、それ以外の時間を切り捨てなければなりません。切り捨てられた時間の方にこそ、僕が見たいと思った光景が残ってる、なんてことはないのだろうか。

僕は写真家になる以前、明らかにすることが自分の表現力だと信じていました。ところが写真家になろうと思った時から、時間や空間を切り捨てながら自分の感じた世界を表現するのは嫌だなと感じ始めたのです。
時間や空間を切り捨てなければ、写真は写真作品として成り立ちません。それなら切り捨てた時間や空間と繋がる方法はないのだろうか。

僕の写真の特徴は、「切り捨てられたフレームの外と繋がりたいと考えてる写真」と言えると思います。

 

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