見えない時間の余白
現在資生堂ギャラリーで開催されている「天空の宙 静寂を叩く」展に多くの方がいらしてくださいます。感謝の気持ちでいっぱいです。
最近、長沢蘆雪の人気が鰻上りです。研究者によっては応挙よりも評価が高いくらい。
私も大好きです。
とにかく作風を一言で括れない多面的な世界を表現したことは、応挙の精神を受け継いだと言えましょう。蘆雪の数ある作品の中でも、大乗寺に描かれた猿の障壁画は見飽きることがありません。
蘆雪の若い頃は応挙の技術を習得するために費やされたと思われる。応挙そっくりの絵も残されているのだが、しかしよく見ると応挙の絵よりも濃いのだ。何かが濃く感じられる。確かな技術にプラスアルファが加わっている。弟子の内でも破格の人物だったことは間違いない。
押さえきれない才能が枠からはみ出てしまうような、規格外の、見ようによってはヤンチャな感性が蘆雪らしいところだと思います。
『応挙の日記』を読むと、「天明の大火」で焼失した御所の修復を応挙と共に手掛けたことが分かっています。蘆雪の技術の高さを応挙も認めていたからでしょう。
ある日、大乗寺長谷部住職がこんなことをおっしゃいました。
「修復から戻ってきたら綺麗になったのだけど、何かが消えたように思う」
それはどんなことでしょう?と尋ねると、
「余白に蘆雪の気迫のようなものが感じられたのだけど、修復後には感じられない」
日本画に於いて何も描かれていない余白が実は重要な要素である、というのはよく耳にすることだが、具体的には理解し難い。住職が感じていたことは、絵が描かれてから270年という時間が生み出した経年変化かもしれないし、あるいは蘆雪のことだから淡い墨を掌につけて、余白にグルグルと擦り付けていたかもしれない。本当のところはわからないけれど、「綺麗になったけど何かが消えた」というのは私にとって聞き逃せない言葉だった。
今回、資生堂ギャラリーで猿の写真を展示してからどうも蘆雪らしくない、と不満だった。
対面に設置した応挙の孔雀作品に比べると時間が含まれていないぶんおとなしすぎる。
蘆雪に近づくためにどうしたらいいか?
展示した後、私が蘆雪に成り代わり掌に見えない時間をくっつけて、グルグルと擦り付けた。
少しでも蘆雪の気迫を表現したかった。
もし、これから資生堂ギャラリーへ行き、猿の写真をご覧になる方は、掌グルグルも確かめていただきたい。
蘆雪、長谷部住職、そして私も大事にした見えない気迫を感じていただけたら幸いです。