「Heavy/週刊プレイボーイ/1972年」
1971年、集英社週刊プレイボーイ編集者小田豊二さんからヌード撮影の依頼があった。
小田さんは当時篠山紀信さんの担当編集者で、私が助手時代に意気投合した。篠山さんの写真集『オレレオララ』の撮影でブラジル、リオデジャネイロへ行った際にホテル同室となり、ロケの間中お互いに人となりをさらけ出した。
私が夜中にコッソリ部屋を抜け出して貧民窟へ通っていたのも、撮影が休みの日にはコパカバーナの海岸でジュース売りを手伝っていたことも、大雨の後、地元の女の子の家で食事してたことも、全部見逃してくれた。
私が写真家になったら一緒に仕事しようと話していたので、約束を実行してくれることになったのだ。
初めてのヌード撮影でもあったし、セクシーな女性の魅力を写真で表現出来るほど私は女の魅力のあれこれを知らなかった。そのため、いわゆる美人顔やスラリとしたプロポーションのモデルを選ばず、私と同じ身近に感じる普通の外観や雰囲気を持つ女性の素の瞬間を撮りたいと考えた。彼女たちがトイレする瞬間まで根気よく待ち続け、そこから撮影をスタートさせた。そのせいか、雑誌が発売された時には私の名前に「暴力ヌード・狂気のエロチシズム」の冠が付いていた。
M→紫新、いづみれいこ、HM→兵藤勇喜、編集者→小田豊二