鎌倉時代の仁王像
仁王像が僕のギャラリーに来た。
阿像、吽像の2体一対。
像高2m40cm、制作は推定1200年代、バリバリの鎌倉時代作です。
檜の一木割り剥ぎ造り(いちぼくわりはぎづくり)。
仏像を見るといつも思う。
「寄せ木」(よせぎ)と「一木」(いちぼく)では彫刻としての力が全然ちがう。
合板の箱物で作る家とムクの木で作る家との違いに似てる。
鎌倉時代は日本の歴史上、特別な時代と言ってもいい。
それ以前の文化を作ってきたのは、天皇、貴族を代表とする、いわゆる知識階級が担っていた。
関東地方に一所懸命の武家集団が台頭してきて、一気に一般の人たちが歴史の中心に躍り出た時代だ。
武士や農民、職人、商人が時代の表に登場して来る。
仏教の世界にも新しい思想が生まれた。
法然、親鸞、日蓮、一遍といった新仏教の僧が、名も残らない人たちと行動を共にする。
仏像の表現方法も、平安時代の理想的でどちらかといえば女性的な造形から、人体をモデルにしたリアリズムが勃興した。
鎌倉の頼朝が奈良の仏師集団慶派を重用したせいもあって、力強い造形が数多く遺された。
僕は今、鎌倉時代の仏師が彫り遺した「残欠」を写真に撮っている。
解体して自然に還ろうとしてる仏像の部分に興味を持っている。
今日も一日中鎌倉時代作の仁王像を見ていて、しばし感心してしまった。
腕の筋肉の表現が実に巧みなのだ。
腕だけではない、首も胸も脚も全てにわたって構造組織の仕組みが解ってないとこれだけ巧みに表現することは出来ない。
表面から見たのではわからない内部の筋肉が彫り込まれてる。
筋肉だけでない。骨も血管もあまりにリアルなのだ。
現代で言う解剖学的知識がないと、ここまで真に迫った彫刻は彫れない。
解剖学的知識の段階で終わるのではなく、知識に信仰が加わるから、西洋のリアリズムとは一味違うイメージのリアリズムが生まれるのです。
鎌倉時代の仁王像は、現代の研究者に誤解されてるのではないかと思う。
先日も、ある美術館の学芸員と話していたら「鎌倉時代の仁王像は表現が大袈裟なんですよ」と言った。
この解釈は、違います。
ヨーロッパのリアリズムを基本に考えるから大袈裟だと感じるのです。
日本の、鎌倉時代の仏師が彫り込んだリアリズムは、目に見えるリアリズムではないのです。
人間を超えた存在をどうやってリアルに感じることが出来るのか、目に見えないイメージの世界のリアリズムなのです。
「大袈裟」なんて感覚は現代人が抱く感覚で、鎌倉時代の仏師には無かったでしょう。
自分を表現する、なんて意識は近代の感覚ですよ。
それにしても、街中に人間の死体が平気で転がってる時代の人が作った彫刻は見飽きることがない。