「パヴロバ回顧展 」始まる。
今日(12/14)から、ギャラリーBで、「パヴロバ回顧展」が始まりました。
パヴロバさんとは何者か、といいますと、日本に初めてバレースクールを開校した方です。
1919(大正8)年、ロシア革命を逃れたパヴロバ一家(母ナタリア、姉エリアナ、妹ナデジダ)は横浜に居を構え舞踏家として活動を始めますが、関東大震災で被災したこともあり、一時期上海に渡ります。しかし、1925(大正14)年再来日し、鎌倉七里ヶ浜に日本初となるバレースクール「パヴロバ・バレースクール」を設立します。
姉のエリアナさんは、1941(昭和16)年に軍の慰問中に上海で客死。その後、妹のナデジダさんが意志を引継ぎ、バレー教育を続け多くの舞踏家を育てました。
ナデジダさんは1982(昭和57)年に亡くなり、今年が没後30周年にあたるため、地元の篤志家を中心に記念展を行うことになったのです。
当時の珍しい資料や写真などを展示してあります。展示期間は3日間と短いので、あっという間に終了してしまいます。この展示も多くの方にぜひご覧いただきたい。
僕は個人的にパヴロバさんにお会いしたことはないのですが、すこしだけ関係があります。それは、僕が写真家になったのは1971年ですが、その年に集英社の『週間プレイボーイ』グラビア撮影の仕事が入りました。当時編集者だった小田豊二さんからの話でした。殆ど僕の写真家デビュー作品です。その撮影場所をどこにするかあちこち探しまわって決めた場所が、「パヴロバ・バレースクール」の建物だったのです。
当時(1971年)すでに使われていませんでした。七里ヶ浜の海を望む高台に建つ白い洋館で、年表によると1929(昭和4)年に建てた、とあります。建築主は母ナタリアで、ロシア貴族が海辺に持つ別荘をイメージしていたのですね。南側に大きなガラス窓があり、写真にはとてもふさわしく美しい光線が室内に降り注いでいました。
当時24歳だった僕は、パヴロバさんのことは何も知らず、ただただ、これから写真家として生きていくためにどんな写真を撮ったらいいのかを考えていました。
出来上がった写真を見て『週間プレイボーイ』編集者は、僕のことを「暴力写真家」と冠を付けました。その時撮影した作品をグラビア6ページに掲載してくれたのです。
僕にとって忘れられない記念すべき場所になったのです。
当時のことと、その時撮影した写真は、僕の写真集『感性のバケモノになりたい』に少しだけ発表しました。
まさか40年以上経って、こんな風にご縁が出来るとは感慨ひとしおです。