二人展の作品

10/17日から、木彫家瀧本光國さんとの二人展が始まります。
takimoto+jumonji

僕が今回の展示に出品する作品は、現在撮り続けている「FACES」と「神殿」の最新作です。
「FACES」は石仏のお顔を撮ったもので、「神殿」は枯れかけた花を撮っています。

写真で何を撮っているかを正確に言葉で説明するのはむづかしいです。

写真は、目の前に存在してるものを写すことで成り立っています。そこにあるものを撮る、ことが写真の出発です。ところが、「そこにあるものを撮る」と言っても案外簡単なようで結構複雑な要素を孕んでいます。
端的に言ってしまうと、「目で見た光景と変わらない、もしくは肉眼で見た方が印象に残る」では、写真に撮る甲斐がないです。

僕は写真に興味を持った初めから、写真に写っているフレームの外側が気になって仕方ありませんでした。芸術と言われているものはどんな分野のものでもそうでしょうが、絵画でいえば、描かれたキャンバスの内側だけで完結していては面白くありません。描かれたものを見て、イメージが膨らんでいくことによって興味が深まります。
画家は、白いキャンバスの一番初めに絵具を置く時から、画家の心の内側に、興味の対象が定まっている、と言っていいと思います。もちろん描きながら変化していくことは当たり前でしょう。「全く何もない」状態から描き始めることも、さまざまに試みられていますが、それでも行為は身体の内側から起こる衝動に支えられていると言えます。
「写真」が「絵画」と大きく違うところは、表現しようとしている世界がすでに目の前に在る、ということです。「写真」の定義をどこまで広げるかによって言わんとする内容が違ってきますが、僕が話している「写真」は、撮影という段階を無くした暗室作業だけで作り出されるもの、あるいは、撮影した写真を元に描いたコンピューターグラフィックは含んでいません。

「写真」が自分の身体の外側、現実に存在している光景を写すことから成立する、と限定したことは、僕の写真に対する考え方を大きく決定づけました。自分の内側、心の中にあるものより先に、表現するモチーフは、目の前に存在してるからです。
すると、出会った現実の光景が問題になります。肉眼で見えたものより撮った写真のほうが面白い、と判断するのは、いついかなる理由でそうなるのでしょう。僕の心の内側に存在しているさまざまなモヤモヤはどう表現したらいいのでしょう。

今、心の内側のモヤモヤと言いましたが、僕が写真を撮り始めた23歳の頃のモヤモヤは、殆どが別れた父との葛藤でした。それから倍近い65年間も生きてくると、当時のモヤモヤがとても可愛く思えてきます。何故あれ程父にこだわっていたのだろうか、不思議な気がします。

二人展に発表する「FACES」と「神殿」について書こうと思ってパソコンに向かったのですが、前置きが長くなってしまいました。続きは次回にします。

 

 

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