大坂屋与兵衛
またまた京都に関係した話が続きます。
先日、鎌倉の古書店「公文堂書店」にて、偶然おもしろい本を手に入れました。
宇高随生さんが書かれた『写真事始め』です。奥付を見ると初版は1979年ですからそれほど古い本ではありません。
発行は京都の柳原書店です。
幕末に京都で活躍した写真師大坂屋与兵衛に関する記述が大半で、これがとても興味深いのです。
写真史を調べた方ならご存知のように、フランスのジョセフ・ニエプスの研究を受け継いだジャックマンド・ダゲールが、1839年に銀板写真術を公開発表したのが写真の始まりとされている。銅板面に銀メッキを施し、表面に沃化銀膜を作り、撮影感光した後に水銀蒸気を当てると映像が現像される。さらにハイポ液で定着する手法だ。ダゲレオタイプと呼ばれている。
日本に初めてダゲレオタイプが渡来したのは天保十二年(1841)とされているが、これが本当なら、写真が発明されてからわずか二年で伝播したことになる。
オランダ人のポンペから写真術を学んだ上野彦馬が、日本最初の営業写真師として開業したのが文久二年(1862)、場所は長崎です。一方、アメリカ人のペリーが艦隊を率いて伊豆下田にあらわれ、開港を迫ったのが嘉永六年(1853)。当然ながらペリー艦隊には記録写真師が乗り込んでいて下田にも写真術が上陸し、下岡蓮杖という絵師が写真術を会得して横浜に写真館を開業した。上野彦馬と同じ文久二年のことです。そのために、長崎の上野彦馬、横浜の下岡蓮杖が日本写真の始祖と考えられがちだが、実は同時期に京都にも大坂屋与兵衛という写真師がいて、この人を忘れてはいけませんぜ、というのが『写真事始め』に書かれている内容なのだ。
大坂屋与兵衛は文政九年(1826)京都に生まれ、慶応元年(1865)三十九歳で京都寺町通りに「西洋伝方写真処」を創業した。上野彦馬、下岡蓮杖に遅れること三年、三人の開業はほとんど同時代と言ってもいいだろう。そして、大坂屋与兵衛は覚え書きを記した売上帳を書き残していて、この売上帳から幕末の京都の情勢が生々しく浮かび上がってくるのです。
下田に停泊してるアメリカ艦隊に密かに乗り込み、アメリカへ密航するという吉田松陰の計画は頓挫したが、松蔭にさまざまな影響を与えたのが洋学者佐久間象山とされている。象山は写真にも特別な興味を持っていて、ロシアの提督プーチャーチンから老中阿部伊勢守に献上したダゲレオタイプ写真機を実際に手に取って観察した。資料から推察すると、写真に関係した薬品類の知識も相当なものだったらしい。
象山は、元治元年(1864)七月二十一日、木屋町御池上ル高瀬川右岸で、肥後の浪士川上彦斎らに襲撃され、横死するが、同日、死の直前に大坂屋与兵衛の家を訪ね写真についての話をしたらしい。何故かと言えば、象山の遺骸の懐中から、与兵衛に教えられた湿板写真の薬方を記した懐紙が発見されたのだ。このメモが象山の絶筆になった。メモに記されていたのは当時最新の写真現像法である。象山は自らレンズを磨き、勝海舟の妹である夫人順子と息子恪二郎の写真を自身で撮影したとされている。いかにも写真好きの佐久間象山の最後らしい。
大坂屋与兵衛が撮影した写真で、僕が見た記憶があるのは土佐の郷士中岡慎太郎を写したものだ。正座した左膝に刀を引きつけ、口を真一文字に結び、眼光鋭くレンズを睨んでいる。幕末の志士とはこういう男なのだ、と感じさせる素晴らしいポートレートだ。
与兵衛が中岡慎太郎を撮影したのは慶応二年(1866)十一月二十四日だった。中岡が坂本龍馬と一緒に瓦町(河原町)蛸薬師の近江屋で暗殺されたのは慶応三年十一月十五日だから、死のほぼ一年前のことになる。与兵衛の売上帳を調べると、この年の営業日数が少なく、十一月は殆ど休業状態だったことがわかる。『写真事始め』の著者宇高随生さんは、このころの京都市中は不穏な空気が充満し、不気味なくらいで写真撮影どころではなかったのだろうと推察されている。
与兵衛の売上帳に記載された文のなかでも、僕が興味を惹かれたのは売り上げ金額と写場で撮影した客の人数です。慶応三年(1867)までの客の人数はだいたい年間百人に満たない。売り上げ金額は五十両に達すれば良い方だ。ところが、ところが、です、慶応四年(1868)になると、爆発的に客が増加する。三月、一ヶ月だけの売り上げで二百三十二両二分、客数は六百十八人に達している。この年は九月八日に改元され、明治の御代になった。
当時の写真機の機能やレンズの暗さを考えると、一ヶ月に六百十八人を撮影するのは並大抵のことではない。レンズの暗さだけでなく、感光剤の感度を考慮すると室外の自然光を頼りにした撮影になり、雨が降れば撮影が不可能だったろう。また、二百三十二両余の売り上げというのは、現在の金額にするとどれくらいになるのだろうか。手元に信頼できる換算資料がないので正確にはわからない。高級酒が一両で二斗買えたというから、仮に、高級酒の値段を一升五千円とすると、一両で十万円になる。写真売上帳の帳尻に慶応四年の一月から六ヶ月間の総売上高が記されていて、それによると、売り上げ金額は千五十九両二分一朱、客人数は二千八百四十七人と書かれている。一両十万円で換算したら、六ヶ月分の売り上げが現在の金額で一億五百九十万円余になった。ちょっと信じられない数字になってしまった。当時、写真一枚の撮影料は一般市民には決して安くないはずだが、頑張ればなんとかなる、という値段だったのだろう。
それだけ多くの人が京都の写真師大坂屋与兵衛に写真を撮られた事実は興味をそそられてしかたない。江戸から東京に改称され、文化も政治も経済も、すべての流れが東京へ、東京へと移っていく時に、京都で写真を残しておきたい心理も僕にはわかる気がする。
時代の最先端の知識と庶民の欲望とが一致した職業が写真師であった時代なのです。さまざまな想像がかきたてられるのです。