フレーム
6月22日、京都市内から北東へ向かって車で約1時間走り、滋賀の朽木へ行く。 朽木には「三角屋」さんの工場があるのです。「三角屋」さんとは変わった名前ですが、僕が一番信頼してる建築家集団で、親方の朝比奈さんに頼んでいた木材を確認しに来たのです。
僕は今年の9月5日から、日本橋の「ギャラリー・ショウ」で写真展を開催する予定です。その個展のための作品は新作で、顔をテーマにした写真にしようと考えています。 僕の写真家としてのデビュー作は、顔をフレームアウトした「首なし」写真だったので、いつの日か首から上を、つまり「顔」あるいは「頭」を撮りたいと思い続けてきたのです。 最近になって、撮りたい顔写真が少しずつ明確になってきました。
どんな顔の写真に興味を持っているかというと、まず「決定的瞬間」から自由であることです。そして、ドラマチックな表情など写っていないのに、写真を見ているといつの間にか被写体であるその人について思いをめぐらしている、そんな写真でありたいと考えています。最も心を動かされる写真は、決定的に凄い一瞬を切り取った映像だと信じられてきた歴史がありました。「絶対非演出の絶対スナップ」こそが本当の写真だと言われた時代もありました。それらについて僕なりの答えを出したいなあと思い始めたのです。もちろん写真で答えたいのです。
写真は一瞬しか写らないのではありません。
顔なんて普段見慣れている表情こそいいのです。
演出しようがしまいが、そんなことどちらでもいいのです。
いつ見ても生き生きしている写真が好きです。何故かといえば、完結していないから。
作者の感動を強制するより、たとえ感動みたいに大げさなものでなくても、見る人の心の中で何かが動いただけでいいのです。その方がよっぽど自由だと思います。時間は写真と特別深い関係があります。その上でなお一瞬の束縛から解き放たれた写真を考えてみたいのです。 そして今の僕の理想は、撮影時には自分でもどんな写真が撮れているかわからない写真でありたいのです。 簡単にいうと積極的な「偶然」の介入です。
当然ながら写真には条件として四角いフレームがあります。 フレームの内側が写真作品ですが、欲張りな僕は常にフレームの外側にも関心があります。そのことをはっきり主張したのがデビュー時の「首なし」写真でした。ポートレートでありながら顔をフレームの外に押し出しました。それから38年経過した今回の作品も、デビューとは違ったかたちですがフレームを意識した作品になりました。今のところ経年変化に眼が向いています。それで、試しに朽木の工場に足が向いたわけです。
琵琶湖の湖底に沈んだ和船の舟板をイメージしたら、親方から提案されたのは江戸時代に使われた栗の柱でした。 答えは来週に持ち越されました。 写真を見なければわからない、という結論です。
来週また今回の写真展のための作品を持って朽木に行くことになりそうです。