多摩美術大学・十文字美信最終講義(3)

写真を学ぶに際し、初めに興味を持って欲しいことは「光」です。
撮影するためには、「光」に対する興味は必須条件です。

僕が最初に学生に向かって提案した課題は、突拍子もないものです。
彼らが写真に対して抱いている常識的な感想を打ち破りたい、思いがありました。
「常識的な感想」とは何か、というと、「写真はシャッターさえ押せば写る」という思いです。あるいは、「目の前に存在してるものしか写らないから面白くない」という感想です
確かに写真は見えるものしか写らないのですが、だからこそ面白いのです。

実在し、見えるものと関わりながら、見えないもの(ここではイメージという言葉に集約してみます)の分野に踏み込んで行く楽しさを体験してもらいたいのです。

特に現在の写真世界を覆う状況は、写真が発明されて170年以上過ぎた今が、写真芸術の歴史上大きな分岐点です。現在、写真は生きるか死ぬかの瀬戸際です。もしかしたら、もうすでに写真は死滅してるとも言える。写真で表現してきた従来のリアリティは生き残る場を失った実感があります。
原因はデジタルの出現です。
フィルムという媒体を通した写真とデジタルの決定的な違いは、デジタルは陰画(ネガ)の喪失と撮影からプリントまでに要した時間のズレを失ったことです。


フィルム写真に必要だった光線の有益性は、デジタル技術が発達するにつれて、またたく間に居場所を無くしてしまった。
事物を反射する光線と撮影者の視線が交錯する瞬間を、一旦、見えない陰画(ネガ)に感光させる空白の時間を失ってしまったのです。
デジタルでは、撮影後の空白時に生まれるイメージを体験することは出来ません。
デジタル写真が陰画(ネガ)と時間のズレを手放したことで、最も魅力的な写真表現のサスペンスまで失ったのです。
デジタルの普及によって懸念することは、サスペンスの喪失であり、撮影者が抱くイメージの無力化です。
数千万、それ以上のドットの洪水が、あっという間にイメージを飲み込んでしまうでしょう。

学生の殆どはデジタルカメラを使用しています。
デジタルを使うことは避けられない現実だとしても、写真表現する上でイメージすることの重要性に気付いて欲しい。
でなければ撮影する楽しさが無くなってしまう。
失われた空白のサスペンスの存在に気付くことはないでしょうが、撮影時に何らかのイメージを持たせるために何をさせたらいいのでしょう?

「豆腐」「卵」「角砂糖」を使ってパッション(情熱)を表現する課題を思いついた裏には、このような空しくもささやかな僕の願いがありました。

 

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