窓の外

窓の外

パリ北駅からユーロスターでロンドンへ行く。
この列車には、かねがね乗ってみたいと思っていたので、さまざまに興味深い。
パリ出国通関時に、滞在期間、渡英の目的などを事細かに訊かれる。

通関手続きが終わり、列車に乗り込んで右の車窓を見ると、金網越しに黒人の家族が集まっていた。駅のホームを挟んで見えた光景に不意を突かれた。被写体までの距離と白い金網が、僕と彼らを隔てている。なぜこの光景が気になったのかわからない。わかる以前にシャッターを切っている。

僕は写真を撮るたびに思うことがあります。モノを明確に見ることに、心が離れていくのがわかるのです。明確にすることは、はっきりさせることです。モノの行く末を限定すること、場合によっては変化を否定して、そのままジッとしていなさいということになりかねません。モノには、僕が介在する以前から変化の可能性を孕んでいます。

僕は子供の頃に家族と離れ離れに暮らすことになりましたが、不意に訪れた喪失感が僕の感性を決定づけました。喪失感から立ち上がるには、新しさの発見しかありませんでした。自分だけにしか見えないものがあって、自分だけが感じたものをどうやって定着しようか、と考えるようになったのです。目の前に存在してるものに対しての共通意識は不信感でした。

「どうせいつまでもそのままでは居ないよ」という感覚です。

まだ知識や教養といった養分を吸収する以前に自覚した喪失感だったので、現在のような年齢になっても持ち続けていられるのでしょう。人格が形成される以前に得た感覚を、今も拠り所として信じています。

少し話が長くなってしまいましたが、「存在に対する不信感から始まる証明って、いったいそれは何ですか?」というのが、僕が写真を撮る理由であり、僕の写真作品の特徴だと思います。
言葉を変えると、リアリズムに対しての不信感と言った方がわかりやすい。
写真家でありながらです。

表現において大事なことは、「確信」や「説明」ではないってことです。
疑問と共に絶えず浮遊している不確かさだけが信用できるのです。

写真は目の前に在るモノを写す行為が前提になっていますが、存在をコピーしないためには、視覚よりも繊細で鋭敏な想像力を必要とします。写真に写っているものはいつか必ず消えてしまうという不安感が、想像力を支えていきます。
ただし、ブレたりボカシたりしてもなお残っている美への憧憬や畏怖は、撮影者にとっては偶然得られたものでなければなりません。ブレたりボカシたりした写真は、大抵は表現以前に撮影者の意図ばかりが見えてしまうからです。すべてがボケてる作品集なんてもっての外です。

冒頭に掲げた写真から明確に読み取れるのは、撮影者である僕の存在だけです。写っている被写体は焦点が合っているにも関わらず、何も理解する手がかりはありません。始めから説明を不要としているからです。

写真は矛盾です。

共有を拒否されてもなお諦めきれない鑑賞者を道連れにして撮り続けるしかないと思っています。

 

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