アンセルム・キーファー

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7/18日、ベルリン中央駅北側にある「ハンブルガーバーンホフ現代美術館」へ行った。

11:00頃に着いて、美術館を出たのは16:50分だったので、5時間以上居たことになる。
それほど長時間何を見ていたのかというと、「Anselm Kiefer」の作品です。
美術館の企画展は「BODY PRESSURE」のタイトルで、Gilbert & George, Duan Hansen, Martin Kippenberger, Bruce Nauman, Nam June Paik など総計22人の作品を展示してあった。
しかし、これらの作品が全部まとまったところで「Kiefer」作品1点に敵わない。
作られたモノというのは、本当に正直です。

この現代美術館の建物は、元ハンブルグ行きの列車が発着した駅舎を改造して作った。
内部はどこか駅舎の香りがする。とても綺麗な空間で、壁は柔らかい白で統一されている。
現代美術を観賞するのにふさわしい。何故白い空間が現代美術に好まれるのだろう。これは現代という時代の特徴を考えるにはいいテーマかもしれない。


入館すると右側奥に真っ直ぐ向かった。リヒテンシュタイン、ウォーホール、ローシェンバーグなどの作品のさらに奥に、キーファーの作品があった。
キーファーファンならご存知の「飛行機」です。

キーファーの作品を見ると、戦争に対する受け止め方がどうしてこれほど日本人と違うのだろうと考えてしまう。すべての作品に戦争の影が色濃く落ちている。
ドイツという国は、ユダヤ人に対する加害者でもあり、敗戦国という被害者でもありますね。そのことはとても複雑な事実です。人間の行為として、戦争はもちろん許すべからざることですが、戦争を認識しようとする場合、加害者、被害者の立ち位置を一つずつ明確にしていかないと、一体あれは何だったのかウヤムヤになってしまいます。日本はというと、朝鮮や中国に対して行ったことは加害者ですが、残虐な行為を実行したのは自国領土外だった故に、戦争に対する反省や認識がドイツ人ほど徹底して掘り下げてないと思い

ます。戦争を計画し国民を巻き込んだ政府の当事者が悪い、一般国民に罪は無い、みたいに思いがちです。でもキーファーは違うのではないでしょうか。戦争という行為を、一人の人間としてできる限り受け止めてみたい。そしてその結果を論理ではなく、アートとして表現してみたい。

何かの記事にも書いてありましたが、キーファーの作品を見て真っ先に感じたことは歴史の認識です。歴史というものは一本の紐のように繋がっていると思いがちですが、そうでしょうか? 人間である私たちが歴史を知ろうとするには、歴史の何処かの時代、何処かの場所、つまり、繋がり流れている時間ではなくて、留まった一つの点で知ろうとするわけです。
点で知ろうとする限りは、その人自身の角度から見ることは避けて通れません。
キーファーはキーファーの角度から歴史を見るわけで、その歴史認識に対する限界の強い自覚が表現に生まれ変わるのだと思います。


僕はキーファーさんと話したわけでもないし、キーファー研究をしたわけでもないから、正確なところは知りません。作品から受ける印象を話してます。

キーファーが生まれたのは1945年ですから終戦の年です。ですから戦争に於ける直接的な責任はもちろんありません。しかし、ドイツ人である彼は、戦争に対しての考察を作品に記録しようとしてるかのようです。自分のするべきことを正直に表現しようとしたら、戦争や死を避けて通ることは出来ないんですね。
人間が深く考察し、その過程や結果を表現するとこうなるんだ、というのがキーファー作品の僕なりの印象です。

「アートはインテリアの飾りじゃあないよ!」と思いますね。
自身の内面を本当に表現したら、部屋に飾って楽しむ、なんて次元じゃありませんよ。当然です。強い意思を持って内面に向かうと恐ろしい作品が生まれます。観賞する側にも強い意思が必要です。美しいというのはそんなに楽しいもんではありませんよ。

「美」は永久に「死」と隣り合わせに存在してる、というのが僕の感想です。

アンセルム・キーファーの作品は、見れば見るほど美しい。
ピカソの「ゲルニカ」と双璧です。

 

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