19世紀のアマチュア写真

昨日(12日)、友人に紹介されてクロードさんに会った。
彼は写真のコレクターであり、写真史の研究家です。
コレクションの分野は、主に、19世紀に写真が発明されてから20世紀初頭までの約80年間に撮られた写真に限られる。
その時代に撮られた写真を多く収集し、貴重な写真もお持ちだと聞いていた。
突然面会をお願いしたので、どこまで応対していただけるか少々心配でした。

幸いなことに、彼の研究室は僕が借りたアパートからタクシーで10分ぐらいの距離でした。
約束の時間より20分ほど早く着いたので、近くのカフェでコーヒーを飲んで時間をつぶしました。
古い大きな木製のドアを開けると右側がレストランの裏口、左側にエレベーターがありました。
エレベーターのドアーが開くと、何と奥行き50cmぐらいしかありません。
普通の体格の大人でも3人入るのが限度、ちょっと肥満の人なら腹がつかえてドアが閉まらないだろう。

僕はこんな小さな狭いエレベーターを初めて見たけど、フランスではそれほど珍しいものではないらしい。
5階で止まりドアが開くと、とても狭い通路が現れた。普通の体格であっても、そのまますれ違うことは出来ないだろう。
煙草の強い匂いがする。
通路左を見ると突き当たりのドアが開いていて、部屋はすぐに壁が迫っているのがわかる。
本が天井までびっしり積まれている。しかも恐ろしく乱雑に。
僕らがそちらへ向かって歩き出すと、すぐに一人の男が左奥から顔を出した。
黒髪で鼻が高く、黒い上着を着ている。40歳ぐらいかな、と思った。
紹介されると宝石のようなうすいグレーの瞳で僕をジッと見つめた。

部屋の広さはこれで1坪あるのだろうか?
畳2枚を縦につないだような空間に机と椅子、小さなソファーがあり、それらの上には古い表紙の本が今にも崩れ落ちそうに積まれている。
座るようにすすめられた椅子の足は、室内に収まりきれないで通路にハミ出ていた。


話を始めると、クロードさんはとても真面目で繊細な神経をお持ちだとすぐにわかった。

1839年に写真が発明されて以来、富裕層の間で一気に広まった。
当時、時代の先端をいくには、自転車、自動車、そしてカメラを持つことが条件だった。
写真が世の中に広まると、すぐにプロが出現した。「注文にしたがって、お望みのように撮りましょう」という人たちだ。観光写真やポートレート、産業革命の波に乗って写真が社会の中にどんどん浸透していった。
1850年代から1910年ごろまで、「ピクトリアリズム」(絵画のような写真)が流行した。

クロードさんの説明も熱が入ってきて、奥の資料の山から古い写真をどんどん出してくる。

ある一部の人たちは、カメラマンと組んで、半裸の何とも不思議に妖しい女の写真を撮った。スタジオに背景を作り、踊り子やコメディアン、女優をモデルにしたらしい。
説明を聞いていると、目的がある仕事というよりも、金持ち階級の遊びでやっていたらしい。
奥からクロードさんが面白い写真を出してきた。
1910年代に広まった「フェローチップ写真」というらしい。
2cmぐらいの小さな金属製の写真だ。免許証に貼るような写真を想像してもらうとちょうどいい。紙ではなく、薄い鉄板に写真が現像されている。
僕は初めて見た。
カメラの中に現像セットまで機能されている。撮り終わって待っていると鉄板に現像された写真が出てきて、プチッと一枚ずつ切り離しては客に渡していたらしい。
それって、ポラロイドカメラと同じですね。


19世紀末から20世紀初頭の写真を数多く見せていただいた。
100年以上前に撮影された写真から思わぬことに気が付いた。この時代はまだレンズの明るさが不足していて、動態撮影は無理だと思っていたが、そんなことはない。僕は日常的に写真を撮っているので、写された写真を見ればシャッタースピードの予測がつく。この時代に撮られた写真のシャッタースピードは、1/30~1/60秒です。どういうことだろう?現像の段階で調節したのだろうか?この時代の増感現像についての意識や方法をご存知の方がいたらご教示いただきたい。

それらの写真の中から幾つか僕の目を引く写真があった。

構図や被写体の位置大きさなど、決まりごとにとらわれない、一般的にいうと下手くそな写真が幾つかあった。そのうちの1枚を手にして
「この写真は面白いね」
というと、それは当時のアマチュアが撮った写真だという。
やはりそうか、と思った。
僕は昨年、雑誌『日本カメラ』で月例写真の選者を務めた。何故写真雑誌に応募してくるアマチュアの写真を見たくなったかというと、デジタルが普及して簡単に写真が撮れるようになった現代、写真表現の可能性を広げるのは、アマチュアでないかと考えているのです。それでトップクラスのアマチュア写真を見たかったのです。案の定、何人かの人たちは新しい写真の可能性を秘めた写真を撮っていた。


19世紀末にも、同じことが起こっていたのです。
写真が発明されて、プロが登場してくると飛躍的に撮影技術が向上した。しかし、そのために知らず知らず表現に制約が出来てしまうのです。それに飽き足らなくなったアマチュアの誰かが、自由に、勝手に写真を撮り始めた。

クロードさんは僕の話を黙って聞いていたが、タバコの火を揉み消すと、握手を求めてきた。
「まったくその通りだと思うよ、今日はあなたに会えて良かった」と言った。まったく同じ考えで、この時代のアマチュア写真にもっと注目して欲しい、と訴えた。

僕は彼のコレクションした写真を見ながら、大学の学生たちのことを思っていた。
彼らに知ってもらいたかった。
クロードさんのよう地味なコレクターがいるからこそ、写真が果たしてきた役割が現代でも確認できるのだということを。

写真で何が表現出来るのか、その秘密を知るのは写真を心の底から愛してる人だけだ。

別れの握手をしたら、クロードさんは恥ずかしそうに笑った。
一人の写真研究者の、時代の流行から離れた静かな微笑みに見えた。

 

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