たった今思っていること。

昨年から「神殿」とタイトルを付けて植物を撮影しています。

花の盛りはもちろん美しいですが、盛りが過ぎて枯れ始めるときもまた美しい。
時が経つに従い、花の個体によって個性が現れます。すぐに花を落としてあっという間に枯れ縮んでしまうのもあれば、いつまでも色を失わない花もあります。種類によって差がありますが、どうも種類だけではないようで

す。その時の温度や湿度、空気の流れ、光に対する向きなども影響してるようです。徐々に色を変えて、形も環境に寄り添っていくさまは、何とも言えず美しい。
枯れ落ちていく間のどの過程を取り上げても美しく愛おしいのです。盛りが過ぎたからといって捨ててしまうのはもったいない。じっと見ていると想像もしなかった発見があります。


茎の長い植物は、見たこともない形に変貌していきます。動きに満ち溢れて、ユーモアを感じて微笑ましくもあります。僕のセンスでは決してたどり着かない神妙な形態に変貌していきます。人間の感覚を超えた大きな力の影響を感じるのです。
僕が今もし20歳だったら、植物の姿をつぶさに観察し、その神妙な姿や色彩から得たアイデアを駆使して、グラフィック処理を施した写真を作るのでしょうか?そのような気持ちもないわけではありませんが、僕の感覚が介入しなくても、そこにある花は完璧に美しいと思ってしまう。

ただ、写真を撮ることによってしか見えない美しさも存在しています。それは、人間の眼の構造の限界というだけでなく、記憶に関係した一種のロマンチシズムが美意識に反映してるからでしょうか。写真は目の前に存在しているモノの表面だけしか写しません。この表面だけしか撮れない、というところが写真の特徴であり、面白いところでもあります。つまり、表面以外のもの、仮に中味や心理的な世界を表現しようと思っても、表面を撮ることでしか方法はないのです。ここが写真のとても面白いところです。


美術館でファインアートの展覧会を見に行き、作品の解説を読んでいると、よくこんな文章に出会います。「写真では表せない内面を表現している」とかの文章です。
写真は表面を撮ることで成り立っていますが、だからといって内面を表せないわけではありません。表面を見つめていて内面が感じられないのでは、あまりに表面に失礼ではありませんか。表面はそんなに鈍感ではありません。先の文章のような表現を読むと、解説文を書いた人の感受性の鈍さにがっかりしてしまいます。

話が逸れてしまいましたが、僕が写真に興味を持ち続けている理由は、表面を写す、ということなのです。この不自由さにどうにもシビれてしまいます。ですから、眼前に存在しているモノの表面をグラフィック的に加工してしまうのは、興味ありません。ジッとしていれば、見たこともない姿に変貌してくれるのに、自分の力で無理に形を変えるのはもったいない。

毎日花を見ている日々です。

 

2 Responses to “たった今思っていること。”

  • 中東佐知子 |

    不自由さにシビれるなんて、おもしろいです。
    私も山の暮らしの中で、ささやかなシビれをいつも感じてます。たまらないですね。

    • Bishin |

      あまりにも条件が良すぎると、やるべきことが単調になりがちです。不自由な状態でやる方が慎重にもなるし、途中の経過も複雑に展開しがちです。ですから終わった時の快感もまた格別ですね。

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