水上勉さんと『蘭の舟』

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『蘭の舟』のための写真を撮り終わり、当時、光村印刷のプリンティングディレクターだった森谷忠義さんに、印刷方法の相談をしました。人物のポートレートは全てブローニーサイズのモノクロフィルムで撮りました。そのモノクロのトーンが重要だということになり、グレーと墨版以外に、もう1版、ニス版を重ねることになったのです。時間の堆積を感じさせる色や深みを感じるにはどうしたらいいか、テストを重ねた結果の答えでした。オフセットで刷ったカラーの風景分も含め、その校正刷りを持って、世田谷区成城にあった水上勉さんの家を訪ねたのです。1979年のことだったと思います。

アポイントは冬樹社の編集者だった荻原富雄さんが連絡してくれました。成城の駅へ着いてから、駅前の公衆電話を使って荻原さんが電話をかけていたのを覚えています。
僕は、当時、港区の日赤通りに住んでいましたから、日赤通り商店街にある花屋さんで、あらかじめ注文していた「水仙の花」を求め、腕いっぱい抱えていきました。水上さんといえば、越前の風土と切り離せないので、水仙の花が一番ふさわしいと思っていたのです。
先生にお目にかかったらどんなふうに話を切り出そうか想像して、少し緊張気味だったと思いますが、行く途中のことはまったく記憶にありません。ただ、電車に乗っている間、水仙の花芯から漂って来る甘い香りを覚えています。


ご自宅に着いて、玄関を開けると、三和土の隅に、車椅子が置いてありました。靴を脱ぐ時にも、大きな車輪の金属の質感が目に入りました。
応接間に案内され、ちょうど茶を一口飲んだ頃に、水上先生が部屋に入って来られました。写真で見知ったままの風貌をされていたので、なんだか安心した気持ちになりました。せっかく気持ちをこめて持って行ったのに、それから先の水仙の花についての記憶がありません。
訪問の趣旨を荻原さんが説明してる間、先生はあまり僕の顔を見ません。どのような心持ちで我々の話を聞いていたのか、お顔からはまったくわかりませんでした。
写真をお見せする段になって、黒い鞄から校正刷りを取り出しました。一番緊張する瞬間です。
取っ手の付いた大きな鞄は、この日のために買ったのです。

一枚一枚、たいへん丁寧に見ていただきました。
途中で一枚の風景写真を手にとると、「越前の親不知に似てるね」「これは何処?これもハワイなの?こんな場所があるのですね」そう言ってじっと見入っておられました。
モロカイ島の断崖絶壁を対岸から望遠レンズを使って撮った写真でした。よく見ると、白い海鳥が断崖の中腹を小さく小さく飛翔しているのがわかります。
僕はその言葉を聞いて、話のきっかけは今だと思い、どのような趣旨でこの撮影を始めたのか、そして、ハワイの日本人移民について、簡単な歴史的経緯や現在の境遇、7年の撮影期間中に出会った彼らに対する僕なりの印象などを話しました。先生は特に、モロカイ島カラウパパに収容されていたハンセン病の日本人移民夫妻の写真をジッとご覧になっていました。僕は僕で、先生の様子から、勝手に『飢餓海峡』を思い出していました。


すべての写真を見終わると、「これから書きます。しばらく待っていられますか?」と先生は言い残され、退席されたのです。なんのためらいもなく、煙草でも取りに戻るような雰囲気だったので、思わず、荻原さんと顔を見合わせてしまいました。それに、僕の方も、水上勉さんから文章をいただきたいとあれほど願っていたのに、その瞬間は不思議なほど冷静でした。

30分ぐらい後に、先生は再び部屋に入って来られ、大きな茶封筒をテーブルに置かれました。
表に万年筆を使った筆跡で「冬樹社 御中」と書いてあるのが目に入りました。
嬉しかったです。ものすごく嬉しかったです。
とてもその場で原稿を読む勇気はなく、心から礼を述べて早々に退散しました。

帰宅してからじっくり文章を読むと、心のこもったで「讃辞」で、わあわあ感激しました。

水上勉先生直筆の原稿は今でも大切に保管しています。

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